我これを報いん
「復讐」とは、言ひたくも聞きたくもない言葉ですが、ネット礼拝で出てきて、最も気になる言葉として残つたので、少し考へてみます。
「復讐」にまつはる聖句でまづ思ひ浮かぶのは、
「目には目を、歯には歯を」
でせうか。
これは一見、復讐を肯定してゐるやうに見える。しかし解釈の仕方によつては、復讐を最小限にとどめようとする戒めとも読めます。
例へば、私が誰かから片目を傷つけられたとする。さうすると私には復讐心が起こつてやり返したくなる。そのときには相手の片目どころではない、憎いので両目でも潰してやりたいと思ふでせう。
だからそのとき
「片目を痛められたのなら、あなたも相手の片目を痛めるにとどめなさい」
といふのが、この戒めの真意だとも考へられます。
つまりこゝには、復讐の許諾ではなく、復讐の無限連鎖をとめようとする意図がある。自己制御、あるいは許しの観念が、わづかながらもあるやうに見えます。
さて「復讐」にまつはるもう一つの有名な聖句。
「復讐するは我にあり。我これを報いん」
これは元々旧約聖書にある聖句ですが、使徒パウロが何度も引用して新約聖書の書簡に出てきます。
こゝにある「我」とは、神のことです。
「あなたが誰かから危害を加へられても、あなたが復讐してはならない。復讐は私が引き受ける。私が彼に報いると約束する」
と神が言はれるのです。
「我」が「私」であれば、これは復讐の推奨になるが、事実はまつたく逆です。「あなたは復讐に手を染めてはいけない」と神が制止してゐるのです。
こゝで二つの疑問が生じます。
① 神はなぜ私の復讐をとめるのか
② 神は本当に私の代りに復讐してくれるのか
私の考への及ぶ範囲で考へてみます。
私に復讐をとめるのは
「相手を憎むな。許しなさい」
と言つてゐるやうにも見えるのに、
「あなたの代りに私が復讐をしてやる」
と言へば、神は許さないやうに見える。
これは矛盾してゐるのではないか。おかしな感じがします。
私が思ふに、神の中には「復讐」といふ概念自体が存在しないのです。我々人間にはこの概念があるので我々の側から見れば矛盾してゐるやうに感じられる。こゝは神の立場から見る必要があります。
神から見れば、この世は「復讐」の原理で廻つてゐるのではない。救ひの原理、カルマの原理、蕩減の原理で廻つてゐるのです。
私が誰かから不意に傷つけられたとき、復讐の原理で見れば、
「なぜ私が故なくしてこんな目に遭ふのか」
といふ反応になる。この場合、私は被害者になるので、復讐の権利を得たやうに思ひ込むことになります。
しかし上の三つの原理から見れば、「故なくして」といふことはない。どういふ「故」であるか、それは私に分からない。さうだとしても、必ず何らかの「故」があるはずなのです。
その何らかの「故」で生じた問題であるので、そこは復讐で対処しないほうがいゝ。復讐してしまふと、そこでせつかく帳消しにしようとした私の問題が、消えずに残つてしまふ。悪くすると、問題は加算されてしまふ。
だから神は「復讐はやめておけ」と言ふのです。
ところが、さてそうであるなら、神が私に代はつて復讐してくださるのでせうか。先にも言つたとおり、神には復讐の概念がない。だから神は復讐されないと思ふ。「復讐するは我にあり」は字義通りには受け取れないのです。
それなら
「我これを報いん」
とはどういふことでせうか。
私を傷つけた人は、その行為自体によつて、すでにそのとき報いを受けてゐるのです。私が復讐し、神が復讐するまでもない。
このことを仏教は「カルマ」といふ概念で非常にうまく解き明かしてゐると思ふ。聖書は「蒔いたやうに刈り取る」と言ひます。
きれいに言へば、この世は創造の原理で運行しており、神はその原理を通して間接的に関与される。だから神は人間世界の復讐劇に関与されない。
それで神が我々に示す最良のアドバイスは、
「苦痛を甘受しなさい。さうすれば蕩減条件とみなす」
といふことなのです。

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