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正論は容易に通らない

kitasendo
正論を通す

先日の記事「
母はやつぱり母だなあ」でも書いたのですが、近所の人から
「お母さん、よく自宅で看てますねえ」
とときどき言はれることがある。

改めて
「どうして施設に預けず、自分で看てゐるんだらう」
と考へてみると、今のおばあちやんの様子だと、施設では目が十分に行き届かず、特に夜などは用心のため、ベッドに括りつけられるのではないか。

いくらなんでも、それは可哀さうだ。目も見えないうえに身動きも取れないやうに縛られては、あんまり残酷だ。私に不足はあるとしても、せめてその残酷だけは避けたい。だから私は施設をよしとしない。

そんなふうなことを思つたとたん、その日の午後から大変なことが起こつた。それこそ縛りつけないと手に負へないやうな事態になつたのです。

最近は夜昼かかはらず結構よく寝るのですが、この日はすぐに目を覚ます。そしてしきりに「家に帰らないと…」と繰り返しながら、ベッドから出ようとするのです。

話を聞いてゐると、どうも自分が今、車の中にゐると思つてゐる。またしばらくすると、今度は鍵をかけたまゝ車を近くに置いてきたと心配する。

「今ゐるのは車の中ぢやない。家の、おばあちやんの部屋の、おばあちやんのベッドの上に寝てゐるよ」
と言ひ聞かせると、
「こゝ、家? ほんとかね? よかつた」
と言つて、一息安心する。

ところがしばらくすると、また頭をもたげて
「家に帰らないと…」
と言ひ始める。

そこでまた同じ説明をする。おばあちやんはまた「こゝ、家? ほんとかね?」と言つて、一瞬安堵する。これが何度も何度も繰り返されるのです。

これが昼間だけではない。夜中にもまた目が覚めて「家に、家に」と声をあげながら、ベッドからしきりに降りようとする。

かなり動き回ると、疲れてしばらくウトウトする。そのうちまた目が覚めて、「家に、家に」と言ひ始める。これが結局深夜を過ぎて、断続的に明け方まで繰り返されたのです。

こんなことが続けば、施設ならずとも、ベッドに縛りつけてでもおかないと、うつかり目を離せない。夜も寝られず、ちよつとした買ひ物に出かけることもまゝならない。そんな思ひになつたのです。

「お前、ほんとに自宅で看ると言ふなら、これくらゐ覚悟しておけよ」
と誰かに叱咤されてゐるやうな気がした。

と同時に、正常な(と自分では思つてゐる)説明がいかに虚しいかといふこともしみじみ思つたのです。

「今こゝが家だ。外にはゐない」
この説明を何度繰り返しても、一瞬納得するやうでゐて、すぐに「さうぢやない」と否定される。私が「正論」だと思ふことが相手にまつたく通じないのです。これはほんとうに疲れる。

「いくら正論だとしても、言ふだけ疲れる。言つても仕方ない」
といふ諦念がくる。

そして、おかしな話かもしれないが、これは認知症のおばあちやんだけに限つた話ではないといふ気もするのです。この世の多くのやり取りも結構これに近いのではないか。

たいていの人は自分なりの考へを持つてゐて、「これが正しい」と主張するのですが、思ひのほか、この主張が相手に通じない。

「それはあなたの考へでしよ。私には私の考へがある」
と思はれて、厚い壁に阻まれる。

「いやいや、あなたの考へはおかしい。本当に正しい考へはかうですよ」
と二の矢を撃つのだが、また撥ね返される。

繰り返すうちに疲れて、自分なりの正論を控へる人もゐるし、何度撥ね返されても倦まず主張し続ける人もゐるでせう。大勢が変はれば私の正論が広く世間に認知されることもありえるが、多くの場合、私の正論とあなたの正論とは溶け合わないまゝ並立(あるいは対立)し続けるやうに見えます。

私の正論を受け入れようとしない人を見れば、
「こんなことが分からないとは、この人は認知症ぢやないのかしら」
と思ふほどです。

どうしたらいゝか。

おばあちやんには「こゝが家だ」といくら繰り返しても、私の正論は容易に通らない。さういふときは、「こゝは家ではない」といふおばあちやんの正論を一旦認めてあげるのが得策だと思ふ。

ベッドからおろして廊下を一巡りして、もう一回ベッドに戻つてくる。さうして「さあ、こゝが家の中の、おばあちやんのベッドだよ」と言つて納得してもらふ。

その上で、おばあちやんの得意な昔話をとことん聞いてあげる。同じ話を何度繰り返さうと、その度に「へえ、さうなの!」と相槌を打つ。さうすると、おばあちやんはだんだんと落ち着いてきて、(多分、疲れも手伝つて)割合穏やかに眠つてくれるやうになるのです。

何事につけ、正論を押し通すのは並大抵なことではない。

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