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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

我々は微々たる歯車か

2022/04/01
原理を学ぶ 0
原理講論
歯車

例えば、ここに一つの完全な機械があるとしよう。そして、この機械のすべての附属品が、この世界にただ一つずつしかなくて、それ以上求めることも、つくることもできないとすれば、その一つ一つの附属品は、いくらつまらない微々たるものであっても、全体に匹敵する価値をもっていることになる。
(『原理講論』キリスト論 第一節)

こゝでは創造本然の人間にはどんな価値があるかを論じてゐます。

人間を見れば、世界の中でとても小さい。いくら本然の人間だとしても、広く世界の注目を集めることなく生まれて死ぬ人が大多数であらう。それでも人間一人の価値は決して小さなものではない。むしろ、神のやうな価値があり、唯一無二の価値があり、天宙的な価値がある。

さう論じた後で、冒頭の説明が出てくるのです。

一人の人間が完全な機械を構成する一つの附属品に喩へられてゐます。いくら微々たる歯車であつても、それが一つでもなければ機械は動かなくなる。だからその歯車には機械全体に匹敵する価値があるといふのです。

この説明をどう思ひますか。私には昔からどこか引つかかりがあつて、腑に落ちないのです。

何が、どうして引つかかるのか。あれこれ考へてみました。

微々たる存在」といふ表現。なぜ「微々たる」かと言へば、世界全体から見れば、確かにいかにも小さい。だから「微々たる」はうそではない。

ならば、その「微々たる存在」がなぜ世界全体に匹敵するのか。それはその存在がこの世界にただ一つしかない、それに代はるものがないからです。確かに誰にも個性があり、恐らくその個性がまつたく同じだと言へる人はこの世にゐないでせう。

「だから、あなたには世界全体に匹敵する価値があります」
と言はれれば、なるほどさうかと思ふ。

しかし、心から喜べるでせうか。私の引つかかりは、どうもこの辺にあるやうな気がする。

「世界に一つしかない、取り替へることもできない。だから唯一無二の価値があります」

さういふとき、世界といふ視点に立つてゐるのです。そこから見える人間は、あくまでも「世界の中の一人の人間」なのです。

そんなふうに言はれても、自分の横を見れば、そこにももう一人の人がゐて、その人もやはり唯一無二の価値の持ち主なのです。つまりこの世界の中には、人の数だけ唯一無二の価値の持ち主がゐる。それはそれで悪いことではない。

しかし、私が本当に感じたい価値は、「世界の中の一人の人間」としての唯一無二の価値ではない。私が感じたいのは「私の中の世界」における私の価値なのです。

「私の中の世界」には他のいかなる人もゐない。ゐるのはゐても、基本的に「その他大勢」です。主人公は「私」と「神」だけなのです。

この世界では、神は私とのみ関係を結んでゐます。神は他の一切の人に関心がなく、ただ私にだけ関心と愛を注いでゐる。このやうに神の愛を独占できるこゝにおいてこそ、私は真に「唯一無二の価値」を感じるのではないか。

人が堕落によつて失つたものがあるとすれば、この「私の中の世界」を失つたのです。だから創造本然の人間に復帰するとは、失つた「私の中の世界」を取り戻すことだと言つていゝと思ふ。

これは前回の記事「
秩序の位置と愛の位置」に続く話です。天使長が「私の中の世界」を確立できず、アダムエバもその世界を持てず、その後の誰一人も持てないで来た。

「私の中の世界」には他の誰一人もゐないので、他の誰かと比べて愛の減少感を覚えたり、嫉妬したり、羨んだりといふことがない。すべては私と神との間だけでやり取りすべき世界なので堕落性もない。それゆゑ、良心もこの世界の中でこそ作動するのです。

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