秩序の位置と愛の位置
事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。 (『原理講論』堕落論第二節) |
これは天使長ルーシェルがエバを誘惑して堕落するやうになる一連の堕落行為の端緒についての説明です。
これを見ると、天使長を愛する神の愛は一貫して変はつてゐない。ただ天使長自身が人間に注がれる神の愛との比較で、自分に対する愛が「減つたやうな感じ」を持つたといふことです。問題は神にではなく天使長にあつたと見られます。
そしてこの問題は、どういふ機序によるかは分かりにくいながら、アダムエバの子孫(我々)にそのまゝ受け継がれてゐるやうに見える。それは例へば、聖書にある「労働者の例へ話」に現れてゐます。
農園の主人が時間的な差をおいて複数の人間を雇つた。夕方仕事が終はつて1日の労賃を払ふ段になり、朝から働いた労働者と夕方に来て少しだけ働いた労働者とが同じ労賃を支払はれた。それを見て、朝から働いた労働者が自分のもらつた労賃に対する減少感を感じ、主人に不平を鳴らした。
この例へ話を聞けば、
「その気持ち、私にも分かる」
とたいていの我々は思ふでせうね。
だから我々も、昔のあの天使長が抱へたと同じ問題を持つてゐるといふ話になるのです。この問題の本質は一体何でせうか。
客観的な状況の中には不公平がない。神は昔も今も変わらない愛で天使長を愛してゐた。農園の主人は契約通りの賃金を支払つた。それなのに、天使長は差別されたと感じ、朝からの労働者は不当だと感じたのです。
外側には不公平がないのに、自分の内側に不公平感を抱いたといふことです。
実際に不公平のある状況といふものもあるでせう。しかし、不公平感はつねに我々の内部で生じるのです。
天使長の場合で考へてみませう。
彼は天使世界の中で最も神に近く、最も厚い信頼を得てゐた。天使世界はたぶん階層社会なのでせう。能力と役割に応じて、階層が分かれてゐた。
ルーシェルは最も能力の高い天使なので、最も神に近かつた。彼はそのことを以て
「神に最も近い者が、神に最も愛されてゐる者である」
と思つてゐた。
外的秩序における位置が愛の位置である。だから外的位置が変はれば、愛の位置も変はる。愛の位置が変はれば、愛の多寡も変はる。それが彼の思考方式であつたのでせう。
しかしどんな位置にゐる天使であつても、彼ならではの神との愛の関係があつただらうと思ふ。彼にしか感じられない神の愛があつたでせう。
つまり、どこで何をしてゐる天使であらうと、彼にしかない神との親密な関係がある。だから、神の愛は一人一人の「私の中の世界」においてのみ感じられるものなのです。
ルーシェルがこのことを明確に自覚してゐたなら、自分の位置にかかはらず、神との一対一の関係による神の愛の実感に変化はなかつたでせう。しかし彼は「私の中の世界」を自覚せず、「秩序における位置が愛の位置」だと思ひ込んでゐたので、位置を維持することにこだはつたのではないか。
『原理講論』に次のやうに記述されてゐる通りです。
愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。 (同上) |
朝から働いた労働者はルーシェルの立場なのですが、彼は直接神の愛を感じてゐたわけではないので、労賃の多寡で葛藤した。労賃の多寡が秩序における位置です。その位置が変はる脅威を感じて葛藤したのです。
ルーシェルが神との親密な一対一の愛の関係に重きを置かなかつたやうに、労働者も仕事から来る充実感に重きを置かなかつた。そこが空疎になれば、外的な労賃の多寡にこだはるしかなくなるのです。
我々は往々にして、喜びも苦痛も外の世界からもたらされると思ひがちです。それでつい「誰かのせいで…」と誰かを責めたい気持ちになる。
しかし本当は、喜びも苦痛も外の世界にはない。ただ「私の中の世界」にだけあるのです。こゝの思ひ違ひが我々の堕落性を誘発する元ではないかと思ふ。

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