宗教生活から自然生活へ
そのように生きさえすれば、自然と共に暮らす人が、宗教生活より心情的な面で次元が高まるので、良い霊界に行くのです。ですから、年が七十を超えて八十になれば、自然に帰らなければなりません。 (『天聖教』6-3-4-12) |
自然生活者が宗教生活者よりも霊的に次元が高い。そのやうに読めるのですが、これはどういふことでせうか。
古代インドでは、人生を四つの時期に区分します。
第一期が「学生期」。生まれてから24歳までで、文字通り、一人前になるまで勉強し成長する期間です。
第二期が「家住期」。25歳から49歳までで、結婚して家庭を営み、家族や社会のために生きる期間です。
第三期が「林住期」。50歳から75歳までで、家族や社会から離れて林の中に一人で住み、本来やりたかつたことをする期間です。こゝが人生のクライマックスだとも言はれます。
第四期が「遊行期」。75歳から90歳までで、この世の一切の執着を捨てて、巡礼して歩く期間です。
古代なのにさすがインドと言ふべきか、人生を90年と想定してゐます。最近やつと「人生百年時代」と言はれるやうになつたので、四住期思想はそのまゝ現代に適用できますね。
文鮮明先生は「七十、八十になれば自然に帰れ」と言つておられますが、四住期の区分で見れば、第三期の「林住期」からさういふ段階に入るやうにも見えます。
自然とは何でせうか。
文先生は
「万物は父の心情の影。父がもてる精力のすべてを注いで造られたものである」
と言つておられます。
これに私なりの自然観を少しつけ加へるなら、
① 自分の思ひ通りにならない
② 投機性がない
促成栽培や抑制栽培によつて、野菜などある程度思ひ通りにしてゐる面もありますが、基本的には自然は自然の法則に従つて運行してゐます。自然とつき合ふには、我々が自然の法則に合はせるしかない。
自然にはまた、投機性がない。5を投入して100出てくるといふことはないのです。その代はり、5を投入したのに何も出てこないといふこともない。自然には投機性がない反面、欺瞞性もないのです。
このやうな自然が「父の心情の影」です。人生の終盤期にはそこに身を置きなさいといふことで、古代インドの教へも文先生の教へも一致してゐます。
それなら、かういふ自然生活に対して必ずしも優れてゐるとは言へない宗教生活とは何でせうか。
自然生活との対比で言ふとき、宗教生活にはやゝ人為的な匂ひがします。頭の中で「かうすれば、あゝなるだらう」「これを達成するためには、あゝしなければならない」などと考へる。かういふ態度は心情的な面で神から少し距離が離れる可能性があるやうにも思へます。

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