神は私に語りかける
ノアの家庭とアブラハムの家庭は『原理講論』の中でもかなりの紙幅を割いて詳しく論じられてゐます。個別の家庭でありながら、神の摂理上重要なものだと見なされてゐるのです。
ノアもアブラハムも不信のはびこる世の中で神から呼び出され、神から直接の命令を受ける。ノアは「山の上に箱舟を造れ」と命じられ、アブラハムは「生まれ故郷を出て私の教へるところへ行け」と命じられる。
アブラハムの場合は故郷を離れたあとにも繰り返し神の指示を受け、ソドムにおいては問答をする。最後には「一人息子を祭物にせよ」といふ過酷な命令を受け、それを遂行しようとする。
「ノアやアブラハムは特別な人だ。神の摂理の中心人物なのでそのやうに神から人生に直接介入されるのだ」
さういふ思ひも湧いてきます。
ところで、彼らはなぜそんなにも特別な人生を生きたと我々は思ふのか。それは言ふまでもない。そのやうに聖書に記録されてゐるからでせう。
聖書に「神は彼らに語りかけた」と書いてあるので、「さうだつたのだらう」と思ふ。そして「彼らの人生は私の人生とは違ふ」と思ふのです。
一説によれば、神が直接に語りかけたのではない。大抵は神に代はつて天使が神の言葉を伝へたとも言はれます。いづれにせよ、それでもかなり特別であることに変はりはない。
しかし、こゝで考へてみる。
神や天使が本当に彼らに語りかけたのか。一方、私については、神も天使も本当に私には直接語りかけられないのか。
さういふ設問を立ててみて、彼らと私との間に本質的な違ひはないと仮定してみます。つまり、私の人生にも神は語りかける。しかも、彼らと同様、いつ、どんな指示が来るか私には分からない。
一例を挙げてみませう。
イギリスの慈善事業家ジョージ・ミュラーは『祈りの秘訣』の中で、かういふ自身の体験を記してゐます。
彼は信仰による慈善事業で大きな業績を出してゐた。ところがある日、まだ幼い愛娘がチフスに罹り、危篤状態に陥つた。
そのとき彼は
「あなたは進んでこの子を私にゆだねるか」
と神から問はれてゐると感じたのです。彼の念頭にアブラハムのイサク献祭体験があつたことは疑ひない。
そして彼はすかさず、
「天の父よ、あなたがよいと思はれるやうに」
と、祈りの中で答へた。
彼は、
「もし神が愛する娘を取り去られるなら、それは親のためであり娘自身のためであり、そして何よりも神の栄光のためである」
と確信してゐたと書いてゐます。
だから、一瞬たりとも不安を抱かなかつた。そののち、娘は回復し始めた。
彼のこの態度は、子どものいのちを主にゆだねるといふ信仰の本質において、アブラハムと異なるところがあるでせうか。私はないと思ふ。
ただ、このときミュラーは神の声(お前の娘を私に捧げるか)を聞いたわけではない。心の中において、さういふ神の声の響きを感じただけなのです。
このやうな彼の態度を見ると、似たやうなできごとは我々の人生にも起こりえないとは思へない。つまり、かういふことです。
自分の子どもが突然の病気や事故で瀕死の状態になる可能性はある。それは誰にでもあるが、問題はそれを「神からの問ひかけ」として受け止めるかどうか、といふことです。
アブラハムもミュラーも、そのやうに受け止めた。私も同様に受け止めるなら、私もそこで神に出会ふことになる。ただ単なる偶然のできごとと受け止めるなら、それは神とは無縁で、人生の一場面として流れ去るのみです。
ノアやアブラハムの人生が神から召命を受け、導かれたやうに見えるのは、彼らが自分の人生をそのやうに受け止めたからだ。そのやうに言ふことができるのではないでせうか。だから、私もそのやうに受け止めれば、私の人生も彼らと同様、神と濃密にかかはる人生になる。
今日、私にどんなことが起きるか、それは分からない。しかしどんなことが起きたにせよ、そのできごとを神がノアに「いよいよ箱舟を造るときがきた」と言はれたと同じことだと受け止めれば、そこで私の人生も神の摂理の中に組み込まれることになるのだと思ふ。

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