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あゝすれば、どうなるか

kitasendo
都市化

ある国なり地域なりが都市化すると、多くの場合、少子化が起こります。先進国の都市ではどこもかしこも出生率が下がって、少子化が起こっている。なぜかといえば、都市は頭でつくられているのに対して、子どもは自然だからです。ひとりでに生まれてきて、親の思うようになりません。
だから、都市では子どもを排除することが暗黙の了解になっているのです。
養老孟司 President online)

1人の女性が産む子どもの数の指標となる出生率は去年、1.34となり、5年連続で前の年を下回った。去年1年間に生まれた子どもの数、「出生数」はおよそ84万人で、統計を取り始めて以降最も少なくなっているとのことです。

少子化問題は長らく我が国の将来に不安の影を落とす。なぜ子どもが減り続けるのか。その理由はいろいろあつて複合的なのでせうが、養老先生の視点は興味深いものです。


都市化すると、子どもは減る。都市化は人工と合理の象徴であり、一方の子どもはその対極の自然を代表する。だから社会が都市化すればするほど、その社会は子どもを排除する。そのことを社会の構成員一人一人ははつきりと意識しないものの、無意識の裡に暗黙の了解になつてゐる。これが養老先生の見立てです。

子どもは非合理的な存在で、自然を象徴すると養老先生は言ふ。どういふ意味でせうか。

子どもでも特に物心がつく前の子どもは、親の言ふことをきかない。お腹がへれば夜中でも遠慮なく泣き出す。おしつこもウンチもし放題。もう少し大きくなればなつたで、今度は危ないものに興味津々で何をしでかすか分からず、気がかりなことこの上ない。

子どもは非力なやうに見えながら、どつこい大人の管理下に整然と押し込めることはできない。合理的なルールを無視し、破るのが子どもなのです。子どもが自然だといふ所以です。

自然のまゝでは困るので、社会秩序を整へ社会生活がスムーズにいくやうに、我々大人はいろいろなルールを作る。そのルールを養老先生は「あゝすれば、かうなる」と表現する。

例へば、最寄りの駅から○○駅までの乗車切符を買つて所定のホームに行けば、定刻通りに電車が来る。それに乗れば案内通りの所要時間で間違ひなく○○駅に到着する。「あゝすれば、かうなる」わけです。

ところが自然の中では、こんなふうにいかない。私の娘が小学生のとき、友人数人と遊び心で森の中に分け入つたところ、方向が分からなくなり、相当の時間さ迷つたといふ恐怖の体験談をしてくれたことがあります。森の中では「あゝしても、かうならない」。これがまさに自然の自然たる所以です。

このやうに都会と自然とでは生活感に大きな隔たりがある。だから自然を代表する子どもは、都会では暗黙の裡に排除される。かういふ養老先生の論は妥当でせうか。

夫婦となつた男女が子どもをほしいと思ふのは、人間としての本能と言つていゝでせう。ところが現実的な思ひ煩ひもある。

子どもを生み育てるには、当今相当なお金がかかる。子どもが多くなると、自分たちの自由な時間も減る。さういふ心理的なブレーキがかかることはあり得るでせう。

それと同時に、もう少し大きなスケールで、社会全体に「都会の秩序を保つために自然を排除する」といふプレッシャーがかかる。もちろんそれは非言語的、非明示的なものにせよ、さういふこともあり得るかもしれない。

それで「あゝすれば、かうなる」といふ我々全体の意識が我々の社会の都市化を支へてゐると養老先生は見る。しかし、そもそも我々の人生の真実は「あゝすれば、かうなる」といふふうにはいかないものでせう。むしろ自分の思ひどおりにいかないのが人生だと、生きれば生きるほど分かつてきます。

それを頭で「あゝすれば、かうなる」と考へてしまふ。予見できないのに、できると思ひこんでしまふのです。

「あゝすれば、かうなる」ではなく、「あゝすれば、どうなるか」と考へながら、目の前に現れる現実を受け容れていく。それが理想を求める人の真の姿ではないだらうか。

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なるほど、養老孟司2
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