「あるがまゝ」を阻む「こだはり」
先日の記事「『あるがまま』の人間関係」で紹介した絵描きの足立幸子さん。彼女は1993年、47歳の若さですでに他界されてゐますが、生前は「あるがまゝ」の生き方を願ひ、それを実践しようと努力したかたのやうです。
彼女の言ふ「あるがまゝ」とは、どういふことか。
まづ思ひ浮かぶのが、老子の言葉「無為自然」。人為的な一切の計らひを捨てて宇宙の流れに身を任せるといふ感じです。儒家が教へる仁義を中心とした規範主義の対極にあるもの。そんなふうにも言へさうです。
ところで、もう少し思ひめぐらせると、仏教でいふ「真我」あるいは「仏性」はどうだらう。さらにキリスト教でいふ「神性」は「あるがまゝの私」と言へないだらうか。
そのやうに言へば、「あるがまゝ」とは「本来の私」あるいは「さうありたい私」と言つてもいゝやうに思へる。
しかし現実には、私はなかなか「あるがまゝの私」になれない。「あるがまゝ」ではない、何かいろいろな夾雑物(きょうざつぶつ)がまとはりついてゐる。
それを「堕落性」と言つてもいゝかもしれない。足立さんはそれを「こだはり」(あるいは「執着」)と言ふ。すると「あるがまゝ」に生きようとすれば、この「こだはり」を取り除かねばならないといふことになるのです。
我々には「こだはり」があるでせうか。ふだんあまり意識したことがないとしても、改めて自省してみると、ないといふ人はゐないでせう。
例へば、お金に対するこだはり。あるいは物に対するこだはり。人に対するこだはり。
お金なら、これくらゐないと我慢できない。持ち物はかういふセンスのもの。この人は好きだが、あの人は嫌ひ。これはできるが、あれはできない、などなど。
これらを一言で言ふなら、
「かうでなければいけない」
といふ思ひ込みです。
「かうでなければいけない」といふのは、自分の中にある自分なりの基準です。その基準は一体どこから来たのか。多分、これまで自分が学んだ知識、過去の経験、あるいは世の中の常識など、さういふものが混ざり合つて自分なりの基準を無意識のうちに作つてゐるのでせう。
その基準が一概に悪いとは言へない。しかしどんな「こだはり」であれ、それらを一旦手放すのがよいと足立さんは言ふのです。
手放すためには、自分にはどんな「こだはり」があるのかに気づく必要がある。自分を振り返つてみませう。
例へば、
「私はあの人のあゝいふ態度が気に障つて仕方ない」
「私はこの人とはつき合ひやすいが、あの人は苦手」
といつた「こだはり」があることに気づく。
そして、
「自分にはなぜかういふこだはりがあるのだらう?」
と自問してみる。
「かういふこだはりが自分には必要だらうか?」
「これらのこだはりが自分をどれほど不自由にしてゐるだらうか?」
と考へてみる。
「こだはり」がある限り、私の基準に合ふ人は愛せるが、合はない人は私の基準に合はせてくれない限り愛せない、といふことになります。人に限らない。どんなものでも自分の基準に合はないものは受け容れられないといふ事態にとどまるでせう。
かう考へると、自分の基準に合はない人やものは、私に自分の蕩減的課題を教へてくれる救世主と言つていゝかもしれない。
「あなたはこゝに引つかかる。これをなくさないと仏性も現れなければ無条件の愛もないし、天国の門も開かない」
と教へてくれるのです。
私が敢へて探すまでもなく、私の蕩減問題は次々に私の眼前に現れてくるのです。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
「ロゴス」と「ピュシス」 2022/12/16
-
自分を許したいのなら 2023/01/17
-
他人があつて自分があり、自分があつて他人がある 2020/04/17
-
陰極まれば陽となる 2022/08/18
-
スポンサーサイト