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「べき」の罠

kitasendo
マスク

「〇〇すべき」「〇〇であるべき」の「べき」。これをもう少し考へてみます。

自然界に「べき」はない、と思ふ。

桜は春に咲く「べき」と思つて花びらを開くだらうか。さうではないと思ふ。何らかのプログラムがあつて、ある一定の気温になり始めると、我知らず蕾がほころぶやうになるのでせう。

ライオンは肉だけを食べる「べき」と思つて肉食にこだはつてゐるのだらうか。これもさうではないでせう。肉が好きでも嫌ひでも、歯は肉食に最適化されてゐる。胃腸も多分、草なんか消化できない。

我々人間だつて、二本足で歩く「べき」と思つて、ハイハイから立ち上がつて歩き出すのではあるまい。親が「立つて歩け」と躾けなくても、いつの間にか歩き始めるのです。

だから自然界はプログラムで稼働してゐる。そこに「べき」が入り込む余地はないやうに見えます。

それなら「べき」はどこにあるのか。我々人間の精神の中にだけあると考へられます。

この精神の中の「べき」から、道徳も生まれ、法律も整備される。道徳は「誰でもかう生きるべきだ」と普遍性を主張し、法律はさうでなかつた場合の罰則まで設ける。

「べき」は必ずしも悪いものではないと思ふのですが、問題もある。と言ふのは、私が自分の「べき」に従つて行動してゐるとき、他の誰かは同じ「べき」から外れて行動してゐる。

それを見たとき、
「私は『べき』だと思つてやつてゐるのに、あの人はなぜ同じ『べき』に従はないのか」
と言つて相手を批判する。

自分の「べき」に相手を引き込まうとするのです。

最近なら、例へば、法律的「べき」はなくても、ほとんどの人が外出時にはマスクをする。これはお互ひのためにマスクをす「べき」と思つてゐるのです。

ところが稀にマスク不装着の人を見ると、
「私は『べき』と思つてしてゐるのに、あの人はなぜしないのか」
と、口に出して言はないまでも、心の中で思ふ。

自分の「べき」を相手にも押しつける。こんなことは他にいくらでもあります。

「私は慈善事業に寄付してゐるのに、あの人はなぜしないのか」
「私は正直に生きてゐるのに、あの人はなぜ適当にごまかして不当な利益を得てゐるのか」

こんなふうに思ふのはなぜかと考へてみると、私が「べき」で行動してゐるとき、心からやりたくてやつてゐないからとしか思へない。「べき」は私の本音ではないのです。

私がもし心から「べき」を喜んでゐるなら、
「私は寄付できて嬉しい。正直に生きて嬉しい。心が満たされる。あの人も同じやうにしたらいゝのに」
と思ふでせう。夢にも「どうしてしないのか」といふやうな批判が出るはずがないのです。

「べき」のない植物や動物には、だから「批判」もない。「自分が正義だ」といふ自己主張もない。

前回の記事「
『あるがまゝ』の人間関係」で紹介した画家の足立幸子さんが
「私の作品は、全く自我も自己主張もない」
と書いてゐるのは、そのことです。

植物や動物に近い境地と言つていゝ。もちろんそれは退化するといふことではなく、むしろ人間として進化することだと思ふ。人間としての貴い精神を持ちながらも、その中に「べき」がないといふ状態です。

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なるほど、養老孟司2
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