「あるがまゝ」の人間関係
前回書いた記事「良きアドバイスをください(その2)」を読み返してみながら、
「私自身も本当に本音で生きてこなかつたなあ」
とつくづく思ふ。
「〇〇であるべき」といふ「べき」が実にたくさんあるのです。本音が胸のあたりにあるとすれば、「べき」は頭にある。頭にあるいろいろな「べき」に縛られて、とても不自由な生き方をしてきたやうな気がする。
足立幸子といふ絵描きが残した講演録『あるがままに生きる』といふ小さな本をときどき読み返すことがある。その本の帯に彼女のこんな言葉が引用されてゐます。
現代のファインアートは自我と自己主張を観念的に表現した観念のかたまりの様な作品がほとんどの様ですが、私の作品は、全く自我も自己主張もない、只々、宇宙の波動をアートにしている。 |
これに即してみると、「べき」の多い私はかなり「観念のかたまり」に近いタイプの人間だなと思ふ。
一方、足立さんは観念がなく、自己主張しない人です。そして、
「自己主張せず、あるがままに生きるのが、一番自由でストレスのない生き方だ」
と言ふ。
ただその際、「あるがままに生きる」のと「我がままに生きる」のとは違ふと言ふのです。どう違ふのか。
「我がまま」は、自分は「あるがまま」に生きながら、相手の「あるがまま」を認めようとしない。それに対して「あるがまま」は自分が「あるがまま」に生きると同時に、相手の「あるがまま」も受け入れる。その違ひです。
「観念のかたまり」である私にしてみれば、自分が「あるがまま」に生きるのも容易ではないが、相手の「あるがまま」を受け入れるのはそれよりもさらに難しい。だから「あるがまま」に生きようとすれば、結局は「我がまま」に生きてしまふことになる。大抵の人も同様だらうと思ふ。
「あるがまま」の人生はどうしたら可能でせうか。「べき」をなくす必要があると思ふ。「べき」は自己主張の観念です。その「べき」を一つづつ消去するにつれて観念が薄らぎ、だんだんと「あるがまま」に近づく。
それなら「べき」はどのやうにしてなくせるでせうか。自分の中の「基準」をなくすことだと思ふ。「良い、悪い」「正しい、間違ひ」「好き、嫌ひ」さういふ基準を一切取り払つてしまふのです。
まづは、自分自身を「良い、悪い」「正しい、間違ひ」などで縛らない。「かういふ立場なら、かうすべきだ」といふふうに頭だけで考へない。それよりも「今、自分は本当は何がしたいんだらう」と胸に尋ねてみる。
さうして、相手に対してもこれらの基準を取り払ふ。自分にとつて苦手な言動をする人であつても、
「この人はかういふ面をもつた人なんだな」
とフラットに(自分の基準で評価せずに)見るのです。
このやうに「基準をなくす」といふことを考へ始めると、自分の周りには「その基準に合はない人」がいかに多いかといふことに、改めて気づきます。ほとんどさういふ人に取り囲まれて生きてゐると言つてもいゝ。
「基準」を持つたまゝでは、大抵の人とどこかでぶつかり、摩擦が生じることになる。「基準」を手放せば、どうなるか。その摩擦も消滅するはずです。ストレスから解放されます。
「あるがまま」の人間関係。お互ひに自分が「あるがまま」に生きると同時に、相手の「あるがまま」も受け入れる関係。これが最も穏やかであり、対立がなく、従つてストレスもなく、理想的な人間関係ではないか。そのやうに思はれます。

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