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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「思ひ込み」からの自由

2022/03/08
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分割睡眠

現在、睡眠とふつうに考へられてゐるのは、大体夜の10時から12時ころに就寝して、朝6時から7時に起きる。それから朝ご飯を食べて仕事に出かける。

睡眠は1日1回。それが当たり前、常識のやうに思つてゐます。しかしさういふ睡眠方法が一般的になつたのは、たかだかこの200年くらゐのこと。それ以前は、所謂「分割睡眠」が広く行われてゐたやうです。


例へば、午後10時に就寝して午前2時に目が覚める。そのまゝ2時間くらゐ起きて仕事や祈りに使ふ。そして3時半から4時ころにまたベッドに入り、7時に起きる。

あるいは、午前2~6時と午後2~6時の2回に分けて睡眠をとる。1回の睡眠時間は短くても、2回合計するとちやんと8時間になる。

今から200年前、睡眠の仕方に変化が起こつたのは、第一に産業革命の進展。昼間働き夜に寝る。活動と睡眠の集中化が起こつたのです。

そしてもう一つが、人工照明の発明。これで人々の就寝時刻は遅くなり、睡眠時間も短縮傾向になつた。

私も勤めてゐた頃は単一の圧縮睡眠だつた。昼寝などしようにもできなかつた。ところが退職とほぼ同時に母の介護が始まると、生活パターンが変はつたのです。

母は弱るにつれて日がな寝て過ごすやうになつた。すると、夜中に何度も尿意を催して目が覚める。私が起きて世話をする。

さうすると勢ひ睡眠不足になるので昼間睡魔に襲はれ、昼寝することがふえる。ところが昼寝をすると、今度は夜に目が冴える。床に入つて寝ようとしても、2時になつても3時になつても寝つけない。

一方では、昼寝といふのがなんとなく後ろめたいといふか、起き心地がよくない。昼間は起きて活動するのが当然といふこれまでの観念があるのです。

ところが、昔多くの人々は「分割睡眠」で自分の生活スタイルを選択してゐた。それを知つてみると、睡眠は1日1回といふのが私の勝手な思ひ込みだつたことに気づいたのです。

仕事現役の人にとつては、睡眠を思ひどおりにするのは難しいでせう。生きていくために、無理にでも一つのパターンに合はせざるをえない。

しかし今、生活時間がある程度自由になつた立場で考へてみると、私と時間とでどちらが主人なのだらうかと思ふ。我々は知らず知らずのうちに、時間を主人とし、時間に縛られながら生きることに慣れてきたのではないか。

さう考へて、夜中に何度も起こされた翌日には昼間に「第2の眠り(昼寝ではない)」を取つてみる。そのせいで夜中に寝つけないなら、2時3時まで起きて読書し、夜明け前に床に就く。さうすると、「寝なければ」といふ心と、「起きてゐたい」といふ体との間の葛藤が減るのを感じます。

それで
「これまで時間に縛られて生きてきたのか」
と思つたが、私を縛つてゐたのは実は時間ではない。

「このやうにするのが当たり前だ」
といふ私の中の「思ひ込み」が私を縛つてゐたことに気がついたのです。

つまり私を縛つてゐたのは私の外部の何ものかではなく、私の内部にあつた。私は自分で自分を縛り、不自由にしてゐたのです。

極論めいて聞こえやうとも、外部から私を縛れるものはないと思ふ。私を不自由にできるものは、私自身以外にない。

話を広げて考へてみませう。

例へば、職場が嫌なのに、なかなか辞められない。それは会社が私を縛つてゐるのではなく、辞めたら生活に困るといふ私の心配が私を縛つてゐるのでせう。辞める自由は私にあるのに、私がそれを行使しないのです。

「あの人が嫌だ、あの人の考へ方はおかしい。どうしてあの人が私の目の前にゐるのだらう」
と悩んでも、その人が私を苦しめてゐるのではない。

「あの人が嫌だ」と思ふ私の思ひが私を縛り、苦しめてゐるのです。

我々は長い歴史をかけて、私を外部から縛るものを少しづつ取り除き、自由を拡大してきたやうに思つてゐます。学ぶ自由、働く自由、結婚の自由、離婚の自由、いろいろな自由を手に入れてきた。それは確かでせう。

しかし最後まで容易に手に入らない自由がある。私自身の「思ひ込み」からの自由です。

これが頑強に残つてゐます。この「思ひ込み」から解放されれば、私は驚くべき自由の境地に入れさうな気がする。「分割睡眠」はそれを考へるきつかけでした。

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