古心を得たら古語をかたりませう
こぼれ松葉をかきあつめ をとめのごとき君なりき こぼれ松葉に火をはなち わらべのごときわれなりき (「海辺の恋」佐藤春夫) |
確か私が高校生の頃であつたと思ふ。好きでよく聞いてゐたシンガーソングライターの小椋佳が歌ふ「海辺の恋」といふ歌に惹かれた。
歌詞が当時でも珍しい文語である。この詩の背景には不倫関係があるといふやうな話も聞いたが、文語が醸し出す男女の情景には曰く言ひ難い味があつた。
それから佐藤春夫に興味を惹かれ、彼の詩集を買つて読み、しばらく彼を真似て文語の詩を作つたりもしたものです。詩才もない身で、もちろん大した詩などできるはずもなかつたが、以来、文語と歴史的かな遣ひといふものに興味を持ち始めた。
その佐藤がかつて、同じ詩人の萩原朔太郎と文語詩をめぐつて論争したことがある。
萩原が
「時代は変はつてきてゐるのに、どうしていまだに古臭い文語や仮名遣ひにこだはるのか」
と佐藤にいちやもんをつけたのです。
それに対して佐藤は、いかにも詩人らしく、かう返答した。
夢を見たらうわ言をいひませう、 退屈したら欠伸をしませう、 腹が立つたら呶鳴りませう、 しかしだ、萩原朔太郎君、 古心を得たら古語をかたりませう。 さうではないか、萩原朔太郎。 (「申し開き」佐藤春夫) |
「古心を得たら古語を語りませう」
といふ言ひ得て妙な一句。このいかにも詩人らしい見事な一句が、私の脳裏に焼きついたのです。
しかし「古心」とは何か。一体どんな心なのだらう。何となく分かるやうな気もするが、言葉で説明しろと言はれると難しい。
難しいながらに考へてみると、確かに、古心を現代語で表現することはできなささうに思へる。
「祇園精舎の鐘の声」
で始まる『平家物語』の出だしを、あの名古文ならざる現代文に訳して、一体「平家物語」が成り立つであらうか。
鴨長明の『方丈記』の
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」
の味はひを、いかにして現代文に乗せることができやうか。
言葉といふのは、ただ意味を伝へるといふだけのものではない。佐藤が「古心」と言ふやうに、「心」を伝へるものです。「心の味」と言つてもいゝし、「心のかたち」と言つてもいゝ。
心といふのはかたちのないものだから、それは必ず何かかたちのあるもので表さなければならない。それはいろいろな行動で表すことになるが、言葉はその中でもとても重要な表現手段でせう。
今の私自身に古語を必要とする「古心」が特別にあるわけではない。ただ、古語で表された「古心」にふれると、遠い昔の人々の心と今の自分の心とがつながり、響き合ふやうな心持ちがして、とても悠久な感じがするのです。

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