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会議報告はなぜまちまちなのか

kitasendo
会議報告

1990年代の半ばころのことだつた。そのころ私は地方の教会の教会長をしてゐて、2ヶ月か3ヶ月に1回くらゐ全国会議があつた。映像配信など簡単にできる時代ではなかつたし、リモート会議など思ひもよらなかつた。

それではるばる電車を使つて、教会から2人か3人会議に参加する。帰つて来ると教会員を集めて報告会を開く。

そのとき会議参加者が順番に報告をするのですが、それぞれの報告を聞いてみると、本当に同じ会議に参加してきたのかと疑ふほどに報告内容が違ふのです。もちろん重なるポイントもあるものの、報告の観点は微妙に違つてゐる。

「同じ会議に参加し、同じ内容を聞いてきたのに、どうしてかうも報告内容が違ふのか。途中で寝てゐたわけでもないのに、おかしなものだ」

そのときはそれ以上あまり深く考へなかつた。しかし、今になつて考へてみると、これは我々人間の「意識」にかかはる本質的な問題を含んでゐるやうに思へるのです。

同じ会議に参加し、隣り合つて腰かけてゐる。同じ発表を聞き、同じ証しを聞き、同じ討議に参加する。だから隣り合つた2人は同じ情報を得てゐると思つてゐる。ところが、実はまつたくさうではないのです。

同じ会議に参加すれば、目から入る視覚情報、耳から入る音声情報に差はないでせう。ところが、この2人はそれぞれが「私の中の世界」を持つてゐて、その世界の流儀にしたがつて、入つてきた情報を取捨選択してゐるのです。

我々は目から入つた情報を見、耳から入つた情報を聞いてゐると、ふつうには思つてゐる。ところが本当はさうではない。私が見、私が聞いてゐるのは、「私の中の世界」で再構成された映像であり、音声なのです。

私の外の世界を見たり聞いたりしてゐるのは私の五感です。それに対して「私の中の世界」を見たり聞いたりしてゐるのは私の「意識」なのです。

そのやうに言へる根拠となるのが、上に出した会議報告の実例です。私が報告してゐたのは「私の中の世界」の内容だつたといふことになります。

このことが我々の「意識」にかかはる本質的な問題だと考へる理由を、もう少し深く見てみませう。

Aさんといふ人がゐます。「Aさんをどう思ひますか?」と複数の人に尋ねてみると、その答へはまちまちです。

ある人は「禿げ頭が気になる」といふ。
ある人は「話し方が気になる」といふ。
ある人は「体臭が気になる」といふ。

ところが「禿げ頭が気になる」といふ人は「体臭が気にならない」。「話し方が気になる」といふ人は「見事な禿げ頭だな」と思ふ。

Aさんが発してゐる情報は、無限と言つてよいほど多い。ところが私はその中のごく一部だけを選び取り、それをもつて「私の中の世界」に「Aさん像」を再構成するのです。それで「Aさん像」はAさんを見る人の数だけでき上るといふことになる。Aさんといふ実体はただ1人だけなのに、「Aさん像」は無数に存在するといふわけです。

こゝに重要な問題がある。私はどのやうな基準でAさんの無数の情報の中からその一部だけを選び取るのかといふことです。

私がAさんを見て髪の毛の多寡が気になるとすれば、それは私の中の何かを反映してゐる。話し方が気になるなら、それもまた同様です。つまり、私がAさんをどう見るかは、100%私の内面を反映してゐる。

つまりもし、
「私はAさんを嫌ひだ」
といふなら、それは明らかに
「私の中にAさんを嫌ふ何かがある」
といふことを示してゐます。

言ひ方を変へれば、かういふことです。

「私がAさんを嫌ふのは、Aさんに万民から嫌はれる要素があるからではなく、私の中にAさんを嫌ふ要素があり、それがAさんの情報の中から嫌なものだけを選び取るからだ」

すると、私がAさんを好きになるには、どうすればいゝか。Aさんの中の要素を変へるのではなく、私の中の要素を変へればよい。そのほうがよほど手つ取り早いし、第一、Aさんを変へることでは本質的な問題解決にならない。

私の体はこの世界の中に生きてゐるが、私の意識は「私の中の世界」に生きてゐる。そのことに気がつけば、それが端緒となつて私の堕落性の克服、私の霊的な成長が始まると思ふ。

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