本心の根拠
Youtubeで公開されてゐる原理講義を見てゐたら、
「良心を過信してはならない!」
といふフレーズが繰り返し強調されてゐる。
「過信するな」といふのは、「適度には信じていゝ」といふことだらうか。適度と過度の境はどこにあるのだらうか。原理はそもそも良心を信じるなと教へるものなのだらうか。気になる。
文鮮明先生は「良心革命」を宣言され、
「良心は父母にも師にも神様にもまさる」
と言はれたことがあります。
神様にもまさるといふ良心を過信するなとはどういふことか。良心を過信せずして、何か他にそれ以上に信ずべきものがあるだらうか。
どのやうに理解したらいゝでせうか。できるだけ整理してみませう。
「良心を過信してはならない」といふフレーズは、間違つてはゐない。この命題の正当性は『原理講論』の良心の定義にあります。
堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。 (「創造原理」第6節) |
こゝにある通り、我々は堕落人間であり、したがつて良心の絶対的な基準も持つてゐないといふのが、基本的な自己認識です。平たく言へば、我々はみな「これが正しくて、あれが間違つてゐる」といふ自分なりの基準で生きてゐる。
このやうな我々が自分の良心基準を絶対的なもののやうに信じると、当然ほかの人との間に対立闘争が起こる。だから「自分の良心を過信するな」といふことになるのです。
さて、そのやうに良心基準のあいまいさを認めた上で、それなら良心のほかに我々は一体何を信じればいゝのか。あいまいさのない、絶対的な善の基準を持つてゐる唯一のもの、つまり本心だけが当てになる。『原理講論』はさう言つてゐます。
そこで最初のフレーズは、
「良心を過信せず、本心だけを信じなさい」
といふことになります。
そのことを『原理講論』は次のやうに表現する。
人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。 (同上) |
良心は自分なりの善を主張するのに対して、本心はつねに間違ひのない創造本然の善を知つてゐるといふ。良心と本心とは、一体何がどう違ふのでせうか。
その違ひのポイントがどこにあるか。それを「自分」だと考へます。つまり、良心には「自分」があるが、本心には「自分」がない。
良心は「何が善で何が悪か」を「自分」が考へる。考へるときの根拠は、それまでの自分の体験、学んだ理論や思想、そして世の中の常識などです。
それに対して本心は、さういふ根拠を一切持たない。根拠の何もないところから、善の絶対基準を出してくるのです。
「あなたがそれを善であるといふ根拠は何ですか?」
と本心に尋ねても、納得のいく理論的な根拠はない。
ないけれども、それが間違ひなく善であると言はれると、反論ができない。反論を試みても、何となく自分の分が悪いのを感じる。反論が言ひ訳のやうな気がしてくるのです。
良心基準には具体的な根拠があるので、その基準を相手にも当てはめることができます。
「私はこれこれの理由で、これが正しいと思ふ。それに合はないあなたは正しくないから、改めなさい」
といふふうに、相手に自分の良心基準を当てはめる。
これを本人は「正義」と思つてゐるのですが、客観的に見ると「批判」とか「非難」とも呼ばれるのです。それでしばしば闘争が起こることになる。
ところがこれに対して本心はどうかといふと、「自分」がなく「根拠」もないから、他の人に当てはめるわけにいかない。本心の基準は当の自分に当てはめるしかないのです。
こゝまで考へてみて、最初のフレーズを改めて見直すと、かうなりさうです。
「良心の基準を相手に当てはめてはならない。本心の基準だけを自分に当てはめなさい」
充分に整理できたとはとても言へませんが、今回はこゝまでです。

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