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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

本心の根拠

2022/03/03
原理を学ぶ 4
文鮮明 原理講論
本心の根拠

Youtubeで公開されてゐる原理講義を見てゐたら、
良心を過信してはならない!
といふフレーズが繰り返し強調されてゐる。

「過信するな」といふのは、「適度には信じていゝ」といふことだらうか。適度と過度の境はどこにあるのだらうか。原理はそもそも良心を信じるなと教へるものなのだらうか。気になる。

文鮮明先生は「良心革命」を宣言され、
良心は父母にも師にも神様にもまさる
と言はれたことがあります。

神様にもまさるといふ良心を過信するなとはどういふことか。良心を過信せずして、何か他にそれ以上に信ずべきものがあるだらうか。

どのやうに理解したらいゝでせうか。できるだけ整理してみませう。

「良心を過信してはならない」といふフレーズは、間違つてはゐない。この命題の正当性は『原理講論』の良心の定義にあります。

堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
(「創造原理」第6節)

こゝにある通り、我々は堕落人間であり、したがつて良心の絶対的な基準も持つてゐないといふのが、基本的な自己認識です。平たく言へば、我々はみな「これが正しくて、あれが間違つてゐる」といふ自分なりの基準で生きてゐる。

このやうな我々が自分の良心基準を絶対的なもののやうに信じると、当然ほかの人との間に対立闘争が起こる。だから「自分の良心を過信するな」といふことになるのです。

さて、そのやうに良心基準のあいまいさを認めた上で、それなら良心のほかに我々は一体何を信じればいゝのか。あいまいさのない、絶対的な善の基準を持つてゐる唯一のもの、つまり本心だけが当てになる。『原理講論』はさう言つてゐます。

そこで最初のフレーズは、
「良心を過信せず、本心だけを信じなさい」
といふことになります。

そのことを『原理講論』は次のやうに表現する。

人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。
(同上)

良心は自分なりの善を主張するのに対して、本心はつねに間違ひのない創造本然の善を知つてゐるといふ。良心と本心とは、一体何がどう違ふのでせうか。

その違ひのポイントがどこにあるか。それを「自分」だと考へます。つまり、良心には「自分」があるが、本心には「自分」がない。

良心は「何が善で何が悪か」を「自分」が考へる。考へるときの根拠は、それまでの自分の体験、学んだ理論や思想、そして世の中の常識などです。

それに対して本心は、さういふ根拠を一切持たない。根拠の何もないところから、善の絶対基準を出してくるのです。

「あなたがそれを善であるといふ根拠は何ですか?」
と本心に尋ねても、納得のいく理論的な根拠はない。

ないけれども、それが間違ひなく善であると言はれると、反論ができない。反論を試みても、何となく自分の分が悪いのを感じる。反論が言ひ訳のやうな気がしてくるのです。

良心基準には具体的な根拠があるので、その基準を相手にも当てはめることができます。

「私はこれこれの理由で、これが正しいと思ふ。それに合はないあなたは正しくないから、改めなさい」
といふふうに、相手に自分の良心基準を当てはめる。

これを本人は「正義」と思つてゐるのですが、客観的に見ると「批判」とか「非難」とも呼ばれるのです。それでしばしば闘争が起こることになる。

ところがこれに対して本心はどうかといふと、「自分」がなく「根拠」もないから、他の人に当てはめるわけにいかない。本心の基準は当の自分に当てはめるしかないのです。

こゝまで考へてみて、最初のフレーズを改めて見直すと、かうなりさうです。

「良心の基準を相手に当てはめてはならない。本心の基準だけを自分に当てはめなさい」

充分に整理できたとはとても言へませんが、今回はこゝまでです。



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弁明するアダム
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Comments 4

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はちみつ

伝道も違うと思う

>良心の基準を相手に当てはめてはならない。

私は最近、伝道も賛成出来ないと思うようになりました。
伝道において、自分達の価値観の押し付けにしか見えないことが多いのです。
家庭連合の伝道のみでなく、他宗教でも同様です。
「あなたの良心基準は間違ってる、私は正しいものを知っているから救ってあげよう」
「あなたは心情が幼いから、私が教えてあげよう」
そういう下心が見え隠れするのです。
ヒトは否定されたら、嫌な気持ちになる生き物なのです。
世の中に「伝道されたい」と思う人は、そう多くいないのです。
「愛されたい。認められたい」と思う人の方が圧倒的に多い。
イエス様が言われる通り、何が何でも愛することが大事なのではと思います。

2022/03/05 (Sat) 07:25
kitasendo

kitasendo

Re: 伝道も違うと思う

私もおおむねはちみつさんのご意見に賛同しますね。「伝道」について、従来の概念や活動形態では今の人々の本性的な願いに適わないと思います。

2022/03/05 (Sat) 21:43

大学院生

考えたこと、意見

良心を過信せずに、本心のみを自分に適応せよという内容はとても、分かりやすかったです。

ただ、良心の中の「自分、我」を分離することは、とても難しいと感じました。
良心と本心は、良心が形状部分で、本心が性相部分であり、これらの性相と形状の一部分では相対基準を結んでいると考えられるからです。

もし、良心と本心が完全に一つとなるなら、こんなこと考えなくていいのですが、悲しいかな人間は、自分が正しいと思ったことを変えるのが難しい存在だと思っています。
これに加え、単なる意見ですが、「良心を過信するな」というのは、一つに「あなたの正しさは絶対じゃないよ」という内容の分かりやすさを追求したのでは?ないかと思います。

強い言葉なので、勘違いをうみそうですね。考えるきっかけになりました。ありがとうございます。

2022/07/13 (Wed) 12:13
kitasendo

kitasendo

Re: 考えたこと、意見

考へるきつかけになつたのとのことで、嬉しいです。
この記事はまだまだ途中の経過報告だと思つてゐます。
良心については『原理講論』の定義と文総裁の「良心革命論」の定義では、かなり違ひがあります。どちらも間違ひではないと思ひますので、全体的にどう整理するかが課題です。

2022/07/13 (Wed) 18:03