幸福な偶然の物語
戦後間もない1948年、評論家小林秀雄と物理学者湯川秀樹が結構長い対談をしたことがある。「人間の進歩について」といふタイトルがついてゐます。
「偶然」といふ問題をめぐつて湯川博士が物理学の観点からひとわたり説明したあとで、「文学者はどう考へますか」と小林に尋ねる。すると、物理が考へる「偶然」とははつきりと違ふだらうと前置きしたうえで、小林はこんな話をします。
例へば、屋根から石が偶然に落つこちてきてある男が死んだとする。そのときに偶然といふ言葉を使つたとしても、それは物理的な物性の運動だけを考へてゐるのではない。落ちてきた石は、その人の運命の象徴なのです。 |
かういふ偶然の確率を物理学で計算できるものかどうかしらないが、できたとしても多分その確率は少数点以下にゼロが何十も並ぶでせう。そのほとんどありえない確率が現れたから「偶然」と呼ぶわけです。
ところが、生活の中で現れる「偶然」は、確率の問題ではなく、「運命の象徴」だと感じるのだと小林は言ふ。確かにさうだらうと思ふ。
死んでしまつたら滅多なことは言へないが、ちよつとした怪我くらゐですんだ場合なら、
「いかにも運が悪かつたね。でも大怪我でなくてよかつた」
とでも言つて慰めることもあるでせう。
「運が悪い」といふのは間違つてはゐない。しかし心のどこかでは運とか確率とか偶然ではすまされない何かを感じることがある。
「どうしてこんな偶然が、このとき、この人に起こるのだらう。どういふ運命が隠れてゐるのだらう」
といふ疑問をぬぐへないのです。
この疑問への答へは、人によつて違ふでせう。
仏教徒なら、前世の因縁に違ひないと考へる。
カルビニストなら、そのやうに神に予定されてゐたと言ふかもしれない。
何か罰が当たつたのかと思ふ人や蕩減問題が現れたと思ふ人もゐるだらう。
いづれにせよ、我々はできごとを「物語」として解釈し理解しようとするものだ。私はさう思ふ。
この世の現象に「物語」はなにもない。少なくとも可視的ではない。それぞれの現象が時の流れに沿つて生起するのですが、私がそれらを結びつけて独自のストーリーを与へるのです。
してみると、「物語」の構成要素は私の外にはない。私の内にだけあることが分かります。そしてその「物語」がノンフィクションなのかフィクションなのか、どうやつて判別できるでせうか。
私自身が「物語」の作者であるなら、筋書きは私の思ひ一つです。自分のためにできるだけ良い「物語」を書いたとしても、誰がそれを批判できるでせうか。
幸福な私の人生の物語を書くか、不幸な私の人生の物語を書くか。たとえ頭の上から石が落ちてきて当たつても、それを「幸福な偶然の物語」にできれば、私の人生は決して運が悪いわけではないことになる。

にほんブログ村

スポンサーサイト