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良心で神の言葉を聞きとる

kitasendo
風と良心

神の言葉がどのやうに聞こえてくるかと言ふと、その声はどこか外から聞こえてくるやうな感じがするが、本当のところはさうではないと思ふ。

神の言葉は確かに森羅万象のかたちを通して伝はつてくる。あるときには、頬をなでるそよ風として。またあるときは、足もとにひつそりと咲く一輪の花として。

ところがこのやうな神の言葉は、人間の言葉のやうに空気を音波として伝はり鼓膜を揺らして私の脳に届くのではない。風や花が神の言葉として私に聞こえるには、それらが一旦私の内部に入り込み、そこで神の言葉に変換される必要がある。

そのときの変換装置が「良心」と言つていゝのではないか。さういふアイデアがふと浮かびました。

このことを逆に考へると、もし私の中に良心がなければ、私にふれる風も単なる空気の移動に過ぎず、一輪の花も次代に種を残す単なる装置に過ぎない。それ自体に神の言葉はないのです。

空気の振動を鼓膜を通して脳内で意味のある言葉に変換するのと同じやうに、単なる現象を意味のある神の言葉に変換する。その装置が「良心」と考へたらどうだらう。

少し言ひ方を変へれば、あらゆる現象には神の意図がカプセルに内包されてゐる。しかしそのまゝではカプセルの中身を知ることができないので、それを開ける鍵のやうな装置が必要なのです。そして「良心」がその役割を果たす。そのやうに言つてもいゝかもしれない。

風や花ばかりではない。身近な人の何気ない一言や振る舞ひ、町の中でふと見かけた光景など、どんな現象の中にも神の意図のカプセルはある。それをうまく開けば、私を育てる栄養があふれ出る。

あるときには、疲れた私の心を慰め、励ます。あるときには、私の進むべき方向を暗示してくれる。あるときには、私が内面に抱へる問題を照らし出してくれる。良心とは第二の神であり、私の最も親しい友人であると言はれる所以です。

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弁明するアダム
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Admin:kitasendo