神の言葉はどのやうに聞こえるか
神様が私に語りかけてきてゐる言葉が1000あるとして、運がよければ奇跡的にその内の1つだけを聞き取ることができる。聞き取つたその1つを我々は「直観」とか「インスピレーション」と呼んでゐるのです。
神はどんな言葉で語りかけるのでせうか。その言葉は、我々がふつうに考へてゐるやうな言葉ではない。
例へば、朝目が覚めたとたんに
「あっ、今日はあの人に連絡してみたいな」
と思ふ。これが神の言葉かもしれません。
嫌なことがあつて気が塞ぎ、俯いて歩いてゐたら、足もとに小さな黄色い花が咲いてゐるのを見つけた。この花も神の言葉かもしれません。
聖書を見ると、イエス様が
「目の前で1羽のすずめが落ちるのも、神の御心と無関係ではない」
と言はれてゐます。
大抵の人は、すずめが飛ばうが落ちやうが自分とは何の関係もないと思つて、見過ごすでせう。しかし、すずめが落ちる様子でさへ神の言葉だとイエス様は受け止められたやうに見えます。
こんなふうに神の言葉は我々人間の使ふ言葉よりもよほど控へめでかすかなので、気づきにくい。それで1000に1つでもキャッチできれば幸ひといふことになるのです。
神はあらゆる現象を通して語りかけてゐる。しかし我々の側の感性があまりに鈍いために、1000に1つも聞き取れない。真実は、神様ほど饒舌なかたはゐないといふことでせうね。
我々は折にふれて祈りながら
「祈つても、なかなか答へはないなあ」
と思つてゐます。
しかし本当はその逆で、しきりに語りかけられてゐるのに、それにほとんど答へてゐないのは私のほうなのかもしれないのです。
もう少し込み入つた神の言葉を考へてみませう。
いろいろと不本意な状況があります。例へば、誰かにいじめられる。誰かに騙される。ものごとが思ひどおりにいかない。誰かとの関係に葛藤する、などなど。
かういふ状況自体が神の言葉だとすると、どうでせう。
「この状況をなぜあなたに与へたと思ふか。これをあなたはどう受け止め、どう対処するのか」
と神から問はれてゐる。その問ひの言葉が、ある一つの状況といふかたちで現れてゐると考へてみるのです。
そのやうに考へてみると、この世は神の言葉にあふれてゐます。この世は神の言葉で成り立つてゐると言つてもいゝほどです。日々の生活そのものが神との対話だといふことにもなります。
饒舌な神にしてみれば、1000の内の1しか聞き取つてもらへないのでは対話がまともに成り立たない。それはあまりにストレスでせう。何とか聞く耳を鍛へて、1000の内の2でも3でも聞き取つてほしいと願はれるに違ひない。
直観を鍛へるといふことは、神独特の言葉を我々人間の言葉に変換する技量を磨くといふことかなと思ひます。

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