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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

大きな私と小さな私

2022/02/22
私の中の世界 0
仏教
細胞

我々はこのやうに流れ流れていくものに何とか抵抗しようとして、「私」といふものを作り出した。しかし今は、その作り出したものによつて逆に縛られてゐる。それが「私」の現状ではないかと思ふ。
(福岡伸一・生物学者:記事「
『私』を作つたのは誰か」より)

こゝで言はれてゐる「流れ流れていくもの」とは、時間であり、時間にしたがつて変転してやまない物質です。

私の体はおよそ60兆個の細胞からできてゐながら、それらの細胞はすべて1年以内には更新されてしまふ。物質的に言へば、1年前の自分と今の自分とはまつたく別人だといふことになります。

近々の細胞更新は実感できなくても、5年10年とたてば皮膚の潤ひは衰えて皺がふえ、体の節々の動きは悪くなる。20年たてば顔つきも見違へるほど変はつてしまふことさへある。

しかし、過去の「私」は今の「私」ではないと言へば、誰も社会生活ができない。約束をしても意味がなく、お金を貸しても返せと言へない。それでは困るといふので作り出したものが「私」なるものだといふのです。

細胞は絶えず入れ替はつてゐるが、「私」だけは変はらない。1年前、10年前の自分も「私」であり、今の自分も同じ「私」であると規定しようといふのです。

細胞が入れ替はり年月が過ぎても変はらない「私」があるのは間違ひない。これは実感的にも疑ひやうがない。

ただこの「私」は一つではないと思ふ。大きく分ければ、大きな「私」と小さな「私」の二つ。仏教用語によるなら、一つは「大我(真我)」、もう一つが「小我」です。

福岡氏が「その作り出した『私』によつて逆に縛られてゐる」といふのは、小我の「私」ではないかと思ふ。

小我の「私」は、自分をその属性によつて規定しようとします。曰く、
「日本人として生まれた私」
「かういふ学歴を持つ私」
「かういふ社会的地位を持つ私」
「かういふ思想信条を持つ私」
などなどです。

「私は〇国人である」とか「私は〇長である」といふやうな属性は、かなり強い小我の「私」です。これを批判されたり否定されたりすると、必死になつてその「私」を守らうとします。

「日本人は〇国人よりも優秀である」
とか
「社長の私になぜ盾つくのか」
「妻は夫の言ふことを聞け」
などと身構えることになる。これが、自分が作り出した「私」に逆に縛られるといふことです。

しかし大我(真我)の「私」は、特定の属性による「私」ではない。謂はば、自分は何者でもないと同時にいかなる者でもありえるのです。だからいかなるものによつても縛られることがない。

小我の「私」がなく、大我の「私」だけになれば、どれほど自由でせうか。何者でもないので、拘りがない。

この大我の「私」は何らかの必要によつて作り出されたものではなく、元々から存在してゐたものだと思ふ。聖書的に表現すれば、「神のかたちに似せて創られたもの」です。

その「私」が創造理想を成就するために物質としての体をまとつたのです。その体が、ある「私」には男であり、別の「私」には女であつた。

ある体は身体能力が人並み優れ、ある体は脳の機能が素晴らしい。商才に長けた体もあれば、芸術志向の強い体もある。個別差はあるが、さういふ体を使ひながら「神のかたち」に似た「私」になつていく。

小我の「私」を捨てに捨て、大我の「私」だけで生きていく。そこに人生の醍醐味があるやうな気がしてゐます。

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