私は神を知らない
なかなか探し出せないのでうろ覚えで書くのですが、文鮮明先生がこんなことを言はれたことがあります。
私にもし罪があるとするなら、それは「神を知つた」といふ罪だ。 |
どういふ文脈で言はれたのか詳らかではなく、その真意を明らかにすることは私にはできない。ただ、相当に底の深い述懐だといふことだけは何となく感じます。
おそらく文先生とはだいぶ違ふ次元で、我々においても下手をすると「神を知る」といふ罪はありえるかもしれない。さう思ふことがあります。
「神を知る」といふとき、神の一体何を知るのでせうか。
創造原理を聞いてみると、神は二性性相だと言ひ、ご自身のかたちに似せてこの世と人間を造つたと言ふ。明確な創造の目的もあつたと言ふ。愛と原理の神は人間の絶対復帰に向けて原則的な摂理を営々と続けてこられたといふことも知る。
さういふことを聞いて、
「あゝ、私は神を知つた」
と思ふ。
その後もいろいろなできごとを通して、さらに実感的に神を知るといふ体験もする。さういふ知識や体験によつて、だんだんと自分が神に近づいてゐるやうな気にもなる。
ところが、こゝに一つの陥穽がありえます。
「私は神を知つてゐる。だがあの人は神を知らない」
と思ふことがあるのです。
神を知つてゐる(と思つてゐる)私と神を知らない(と思はれる)あの人の間に、境界線を引いてしまふ。歴史的に見ても、選民と非選民との境界線があり、正統と異端との境界線がありました。こんにちでは、アベル圏とカイン圏とに分けることもあります。
「私は神を知つてゐる」と思ふことで、私の中に知らず知らず差別意識が生まれてゐる。境界線のこちら側にゐることで優越感があり、自分の行為への自己正当化もできる。
かういふことは、我々の次元で起こりえる「神を知る(と思ふ)ことの罪」と言へるのではないかと思ふ。かういふ罪を犯してしまふくらゐなら、むしろ神を知らなかつたほうがよかつたのではないか。そんなふうにさへ思へます。
だから、神について学び、神を体験した人であればあるほど、
「私は神を知らない」
といふ立場に立つほうがいゝのではないか。
「神を知つてゐる」と言つても、どうせ(多分)大したことは知らないのです。神はそんなちやちな方ではないでせう。それならいつそのこと、「私は神を知らない」といふ立場に立つ。
私は最近仏教についてよく考へるのですが、仏教では「神を知つてゐる」とは言はないのです。さう言はない代はりに、「山川草木悉皆成仏」と言ふ。我々人間はもとより、すべての万物もその内に「仏性」を有してゐて、「仏」に成りえると考へるのです。
こゝには、何かを知つてゐる、ゐないの境界線がない。一切の差別意識が入り込む余地がない。
差別意識がないから、
「善人より悪人のほうが先に往生する」
と主張する親鸞聖人のやうな人まで出てくる。
差別意識がないどころか、善と悪との区別さへ溶けてなくなるやうな意識構造になるのです。
私は密かに思ふ。
文先生が「神を知る」と言ふとき、さういふ人は一切の差別意識がなく、善と悪を分ける意識もないと考へておられたのではないか。誰かと誰かを差別するくらゐなら、「私は神を知つてゐる」などと夢にも言ふべきではないと考へておられたのではないか。
本当に神を知らうとするなら、本当に神を知つてゐる人のやうに生きるばかりです。その人はただ自分が「神を知つてゐる人」になることだけが願ひであり、自分の中にその可能性(仏性)があると信じると同様に、いかなる人の中にも同じ可能性(仏性)があると信じて生きるでせう。

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