「私」を作つたのは誰か
生物学者の福岡伸一氏が解剖学者養老孟司氏とのパネルディスカッションで、「私」といふものについて、こんなふうに自論を展開してゐます。
★★★(福岡始め)
生命現象をみると、物質的な基盤は何もない。「私」といふものはどんどん入れ替はつてゐる。消化管なら2、3日で細胞が入れ替はつてしまふ。筋肉なら2週間、血液細胞なら数ヶ月で入れ替はる。
だから1年ぶりに出会つて
「やあ、お変はりありませんね」
と言ふけど、実はお変はりまくつてゐるわけです。
物質としては全然別の人間になつてゐる。だから、約束なんか守らなくていゝ。借りたお金も返さなくていゝんです。でもそれでは社会が成り立たないので、様々なものが作り出された。
その一つが「言葉」だつたんです。あるいは制度や契約や文化であつたわけです。
その中で自分は自分であるといふ自己同一性をつなぎとめておくものとして必要な作用が求められた。それが「私」といふものだと、私は思ふ。
でもそこにも物質的な基盤はない。記憶だつて変容してゐる。記憶といふものを支へてゐる神経回路も、ゆつくりながら入れ替はつてゐるからです。
我々はこのやうに流れ流れていくものに何とか抵抗しようとして、「私」といふものを作り出した。しかし今は、その作り出したものによつて逆に縛られてゐる。それが「私」の現状ではないかと思ふ。
★★★(福岡終はり)
日常生活の中で「私」と言つたり「俺」と言つたりしながら、何の違和感も感じないでゐます。「私」といふものは当然ある、疑いやうはないと思ひ込んでゐます。ところがこの「私」といふものほど不思議でつかみどころのないものは他にない。
1年前と比べれば、体の細胞はほぼ100%更新されてゐるのに、どうして1年前の「私」と今の「私」を同じ「私」と考へてゐるのか。そこには物質的な根拠が何もないのだから、日々新しい「私」だと思つてもよささうなのに、そんなふうには思へないのです。
福岡氏は「流転するものに抗はうとして『私』を作り出した」と言ふが、それが正確な言ひ方かどうか。私には何とも言へない。
このやうに言ふなら、一体何者が「流れに抗はう」としたのか。一体何者が「私」を作り出さうとしたのか。「私」ではない別の主体を想定しなければならないと思ふ。その主体は、明らかに流れの「外」にゐるはずです。つまり、物質ではなく、物質に作用を及ぼせる何者かです。
いづれにせよ、我々が日常何気なく使つてゐる「私」といふ得体の知れないもの。これは物質を基盤とした今の科学ではとても掴み切れないものです。
福岡氏の言を受けて、養老氏もこんな自説を述べる。
★★★(養老始め)
キリスト教とかイスラム教、ユダヤ教など一神教の世界では、どうしても「私」がいるんだと思ふ。その典型が「最後の審判」だと思ふ。
大天使がラッパを吹き鳴らすと、すべての死者が墓から蘇る。そして主の前で裁きを受ける。
この話を聞いたとき、日本人である私は
「この裁きの前に出る『私』つて、一体誰だ?」
と考へてしまふんです。
さうすると、年取つてアルツハイマーになつて、なにも分からなくなつた状態で審判に呼び出してもらひたいなと思ふんです。全部覚えてゐる状態で呼び出されると、「お前あのとき、あゝいふ悪いことをしただらう」と言はれても反論ができない。
でも一神教の世界つて、神が宇宙を創つたところから最後の審判まで、きちんと書いてある。さういふものをづつと聞いて生きてゐると、どうしても「私」といふものを強く意識せざるを得ないのではないか。そんな気がする。
さういふ文化もあつていゝけど、違ふ文化もある。日本人は昔から「私」といふことをあまり言はないんぢやないか。
★★★(養老終はり)
聖書によれば、「私」は神のかたちに似せて創られた。その「私」がどんな生き方をするのも自由のやうに思はれるが、結局最後の審判に臨んでは「私」といふアイデンティティを持つ者としての責任を持たねばならない。さういふ文化の中では、良くも悪くも、「私」といふものを強く意識せざるを得ないのでせう。
反対に、養老氏に言ふとおり、我々日本人はあまり「私」と言はない。主語としてもよく省くから、誰がそれを主張してゐるのか判然としないこともある。
日本では「私」のほかに主張するものがあつて、それを山本七平氏は「空気」と呼んだ。うまいことを言ふものです。
だから例へば、太平洋戦争を始めるときに
「私はそれを主張する」
と言つた人は誰もゐない。
誰もゐないのに、「空気」がそれを主張したので、いつの間にか戦争に突入した。戦争さへ「空気」で始まり、「空気」で終はつた。誰も主張しないなら、誰も審判を受けないとも言へる。実に稀有な文化です。我ながら情けないといふ気もします。
しかしこの「私」と言はない文化には、偉大な可能性も潜んでゐると思ふ。
人知れず努力しながらも、名利を求めない。宗教の世界に現れれば、徹底した他力の信仰が生まれる。
「私、私」と言つても、そもそも「私」には目に見える基盤など何もないのです。流れに抗ふ必要などないと思へば、無理に持ち続ける必要もない。

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