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「大愚」の人

kitasendo
大愚

なかなか探し出せないのですが、どこかで文鮮明先生が「愚」について語つておられます。

例へば、熊などが漁師に腕を撃たれる。すると、逃げるのに邪魔だと思へばその撃たれた腕を自分で噛み切り、腕を捨ててとにかく逃げる。

腕をなくしたらあとで困るぢやないか。さういふことは咄嗟のときには考へない。今逃げ切るにはどうすべきか、それだけを考へる。

信仰者にもさういふ一種の愚かさが必要だ。大体そんな話なのです。

世間一般で「愚」と言へば、いゝ意味ではない。「愚」と「賢」が競へば、当然「賢」が勝つと考へるでせう。しかし信仰の世界では、この「愚」を目指す、あるいは憧れるといふところがあるやうに思ひます。

例へば仏教では、「大愚」といふ表現をする。「大愚」はそこそこの「賢」よりはよほどすばらしいと考へるのです。

仏教に「妙好人」といふ言葉があります。在野の人として生きながら、教へにふれて信心を立て、それを生涯変はらず持ち続けて、目立たず往生する。さういふ人を「妙好人」と呼んで賞揚するふうがあるのです。

例へば、沙弥教信といふ人。これは親鸞聖人が生涯憧れ、自分の理想像とした人です。

平安時代の人で、里に住み、結婚し、ふつうの家庭を営みながら、近所の人を助けたり、道路補修をしたりして、自分は食ふや食はずの生活をする。生涯念仏を唱へ続けながら、死ぬ。

自分の死ぬ日を予告してゐたから、知人が訪ねてみた。念仏一途の人生でさぞや往生を遂げたかと思ひきや、死体は犬に食はれて散らかつてゐたといふのです。

かういふ人を天下の秀才、宗派の開祖である親鸞聖人が生涯憧れたといふ。教信のどこに憧れる要素があるのか。それが「愚」ではないかと思ふのです。

「愚」とは何か。「今しかない」といふことではないかと思ふ。腕を負傷した熊にとつて、生き延びるには「今しかない」。だから邪魔になる腕を噛み切る。あとのことなど考へてゐる余裕はないのです。

高僧と言はれながらも、私が「かなり愚だな」と思ふのが、臨済宗の白隠禅師です。この禅師の逸話についてはこれまで何度もふれたことがあるので、こゝでは詳述しない。(「
ほう、そうか」を参考に)

この白隠禅師にも「今しかない」のです。

村の娘が嘘をついて「お腹の子は禅師の子です」といふと、「ほう、さうか」と言つて預かる。数年後、「あれは嘘でした」と謝罪すると、また「ほう、さうか」と言つて赤ん坊を返す。

禅師にとつて、あとのことはない。ふしだらな坊主といふ悪評が立つことは目に見えてゐるのに、赤ん坊を押しつけられたら弁明せずに預かる。「嘘でした」と言はれたら、批判せずに手放す。

これはただの「愚」ではなく、「大愚」といふのだらうと思ふ。どうせ「愚」を目指すのならただの「愚」ではなく、「大愚」を目指さないと意味がない。

ところが親鸞聖人が生涯教信に憧れたといふのは、容易なことで「大愚」にはなれなかつたとも見てとれます。なぜ「大愚」になりがたいか。知識、知恵が邪魔をするのです。

筋の通つた理論理屈が、経典の中にはいくらでもある。それを読めば知識の大家になつて、人に教へることができる。

頭を使へば「かうすれば、あゝなる」と分かるから、出世の方法も分かるし、お金の集め方も分かる。何をすれば功徳が積めさうかも分かる。

しかし、このときの頭は意識なのです。「かうすれば、あゝなる」と見通せる意識は未来を見ることによつて、「今」を見失つてしまふ。だから「愚」に憧れても、それは「偽愚」にしかならない。決して「大愚」にはなれない。

「偽愚」の人は、決して偽りの赤ん坊など受け取らないでせう。そんなことをすれば自分の名声が一気に地に落ちることが分かり切つてゐる。「かうすれば、あゝなる」の知恵です。

教信はなぜ生涯、名声も求めず、財産も求めず、ただ人を助け、亡骸の埋葬さへ求めずに逝けたのか。「偽愚」の人から見れば、「愚」の典型にしか見えない生涯です。

しかし信心といふのは、行けば行くほど「今しかない」といふ境地を求めるもののやうに思へます。「かうすれば、あゝなる」といふやうな小賢しい未来の希望などには、だんだん意味を感じなくなる。

とは言へ、「大愚」は私にとつて、まだまだはるかな憧れであるばかりです。

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