私はちつとも知らないよ
今日の記事は書きにくい予感がある。へまをすると誤解を招きさう。個人的な批判をするつもりはない。ただ自分の心に映つたものを書きとめておかうと思ふ。
と、一応断つたうえで、用心しながら書いてみます。
おばあちやんのオムツかぶれがひどくなり、こまやかな世話があつたほうがいゝといふケアマネさんの勧めで、先月から週に3回、訪問介護を頼んでゐる。担当は4人がローテーションで、来る人が毎回同じではない。
介護士はそれぞれ経験も積み、いろいろな年寄りを相手にしてこられたから、応接は心得ておられると思ふ。しかし、介護士も人の子。接し方にはそれぞれの特徴がある。
今日の介護士さんは2回目だつたか。前回はわりとスムーズにいつたが、今日は最初につまづいた。
てきぱきとするタイプの人だから、さつと布団をはぐつて下の世話を始めようとしたところ、驚いたおばあちやんがひどく抵抗をしたのです。それでも世話を続けようとすると怒り出して、
「帰つてくれ! 死んでしまふ」
と叫ぶ始末。
さすがに介護師さんの手はとまり、しばらく無言になる。私は後ろから見ながら、
「介護師さんも葛藤してゐるな」
と思ふ。
と同時に、
「おばあちやんが抵抗して怒るのも仕方ない。目の見えない認知症の年寄りには、ちよつと配慮が足りない。これでは、おばあちやんが可哀さうだ。プロならもう少しうまくできないのかな」
とも思つてゐる。
このときの私には、介護師さんへの批判があるのです。ほかの介護師さんはもう少しましだからいゝとして、この人だけは今後断らうかとまで考へる。
しかし、頭のどこかでは
「私のこの見方は、どこかおかしい」
といふ気がしてゐるのです。
しばらく気持ちを鎮めて考へてみると、
「この場面は、私の心が映し出されたものだ」
と思はれてくる。
介護師さんのやり方がぞんざいに見えるのは、私の基準による判断なのです。その人にはその人のやり方があるのに、それを見ながら私が「ぞんざいだ」と感じてゐるのにすぎない。
さう考へると、私が今感じてゐる葛藤は、私の苦痛だ。問題はその苦痛を「甘受」できるかどうかではないか。そこに「復活論」のいふ「復活の秘訣」がある。
しばらくすると、介護師さんが少し違つて見えてくる。
この人は介護といふ仕事で我が家に来たのではない。この人の抱へる蕩減的課題を解決するために来たのだ。仕事ではなく、修行できた。さう思へてきます。
さらに、この介護師さんが我が家に来てくれたのは、私のためだ。この人のお蔭で私は苦痛を感じ、自分の内面の問題に気づくことができた。
なるほど、人の出会ひ、人の配置といふのは、かういふふうになつてゐるのか。さう思ふと、この介護師さんがまつたく違つて見えてくるのです。
私も助け船を出すつもりで、おばあちやんに声をかけてみる。
「おばあちやん、ヘルパーさんが体をきれいに拭いて、薬を塗つてくれるよ」
さう言つても、おばあちやんの機嫌はすぐには直らない。相変はらず黙り込んでゐる。
すぐには世話を再開できさうもないから、私は台所に戻つてお湯を沸かし、介護師さんにお茶を出す。そのあいだ、介護師さんも一生懸命おばあちやんに話しかけてゐる。昔の思ひ出話を聞き出さうと工夫する。
「帰つてくれとまで言はれたのに、頑張つてゐるなあ。さすがプロだなあ」
と、見直す気持ちになる。
結局最後には、おばあちやんは介護師さんの勧めに応じて、トイレに立つ。オムツを換へてもらひ、薬も黙つて塗つてもらふ。予定時間を少しオーバーしたものの、介護師さんのやるべきことはすべて終はつた。
いくらプロだとは言へ、おばあちやんの激しい抵抗と言葉には心が痛んだに違ひない。それでも帰りがけには笑顔があつた。
介護師さんが帰つたあと、おばあちやんに
「ヘルパーさんがきれいにオムツを換へてくれて、気持ちよくなつたね」
と言ふと、
「ヘルパーさんが来たかね? 私はちつとも知らないよ」

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