我々は同じ世界を見てゐるのか
「相貌失認(そうぼうしつにん)」といふ一種の脳障害があるさうです。「失顔症」と呼ばれることもある。概して言へば、何度顔を合はせてもその人の顔を認識できないといふ症状です。
どんな症状か。この認識症状を持つある女性の体験談を一つ紹介しませう。
夫と連れ立つてスーパーマーケットに行つたときのこと。しばらく別々に見てまはつた後、夫のところに戻つてみると、棚からピーナッツバターを取り出してカゴに入れてゐた。
彼女はすぐにそのピーナッツバターをつまみ出し、ラベルを一瞥してから、かう問ひただした。
「いつからこんなまがひ物を買ふやうになつたの?」
その瞬間、夫は後ずさりした。怯えと驚きの目で彼女を見た。
「どうしてそんな顔をするのだらう?」
と思つたが、そのときになつて彼女はやつと気がついた。
この男性は夫ではなかつたのです。
笑ひ話のやうな体験談ですね。誰にでもありえるでせうか。似たやうなコートを着てゐたので勘違ひした。単なる注意不足。さう言ひ訳できるかもしれない。
ただ、彼女には似たやうな間違ひが日常茶飯事なのです。多くの友人はゐるが、そのうち顔をきちんと認識できるのはわづか数人だといふ。残りの人たちは「私の友人らしい」といふ括りで認識してゐるにすぎないのです。
「相貌失認」といふ脳障害があると聞くと、
「私にもその気があるかも」
といふ気がしてくる。思ひ当たることがいろいろあります。
それはさうとして、もちろんこんな人は多くない。しかし世の中に一定数は存在するといふのです。
我々はふつう、みんなが同じ一つの物理世界の中に住んで、同じ世界を見て(認識して)ゐると思つてゐます。ところがその実、一人一人はそれぞれ違ふ世界、その人独自の世界を見てゐるのではないか。そのやうにも思へてきます。
もしさうだとすれば、どうして我々はそんな誤解をしてゐるのか。その最大の理由は「言葉」だと思ふ。
例へば、私とAさんに共通の友人Bさんがゐるとします。「Bさん」といふ言葉によつて、私とAさんは同じBさんを見てゐると思ふ。ところが実際のところ、私が見ているBさんと、Aさんが見てゐるBさんとは、まつたく違ふ人である可能性が高いのです。
私はBさんを評して
「正直な人」
と思ふ。
それに対してAさんは
「ナイーブな人」
と評価する。
同じBさんが、なぜこんなふうに違ふのか。私もAさんもBさんその人を見てゐるのではなく、自分の意識が認識するBさんを見てゐるのです。
こゝには各自の脳の機能の違ひもあるでせう。しかしそれと同時に、各自の中にある「因」がおそらく違ふのです。「因」が違ふから、同じ「縁」(Bさん)にふれても違ふ「果」(Bさん評)が現れるのだと思ふ。
「因」とは元来仏教の概念です。「因縁」とも言ひ、「因果」とも言ふ。
「因果」と言へば「原因」と「結果」。どんな結果にも必ず原因があるといふのは、我々の常識にも合致します。仏教では原因をかなりさかのぼり、前世で作られたものが現世に現れるとも考へる。
ところが「原因」と「結果」とを結びつけるものは何か。結びつくのが当たり前のやうに思つてゐますが、改めて考へるとよく分からない。なにしろつながりは何も目に見えないのですから。
私はこれを「記憶の再生」ではないかと考へてゐるのです。記憶が「因」となり、それが再生されるのを目の前の現象(「果」)として見てゐる。再生を起こすものが「縁」です。
「縁」は「因」を現象化させるためのトリガー(引き金)だと言つてもいゝと思ふ。私の意識はその現象を見るしかないのですが、それだけなら私はいつまでたつても変はらない。霊的に成長しない。
私が成長の方向に変はつていくためには、この「因」を意識的に変へていく必要がある。このことは繰り返し記事にしてゐます。これからも繰り返すつもりです。

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