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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

人生からの問ひ

2022/02/12
信仰で生きる 0
仏教 親鸞
人生からの問ひ

あるとき唯円が師である親鸞聖人に正直な内面を告白し、かつ尋ねたことがある。

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに(切実でない)候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかに…
(『歎異抄』第9条)

師の教へを信じて熱心に念仏行をしてゐるのですが、心から躍り上がるやうな喜びが湧かないし、素晴らしいといふ浄土へ早く行きたいといふ心も起きません。これは一体どういふことでせうか。

この問ひは、唯円にとつて相当深刻な問題だつたのに違ひない。

この頃唯円は親鸞聖人の弟子の中でも低くない位置にゐたと思はれる。はたから見れば優秀で信心深くもある人がかういふ告白をするといふのは、なかなか正直で真面目な心性を思はせます。

実際浄土門の歴史をさかのぼつてみれば、嬉しくて踊りを踊つた人もあるし、浄土を慕つて自発的にこの世を離れた人もある。それに比べて、自分にはなぜさういふ信心の湧き上がる喜びと熱情がないのであらうか。それが唯円の密かな苦しみであつたのです。

ところが、これに対する聖人の返答がなんともふるつてゐるのです。

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
(同上)

実は私にもさういふ不審の思ひがあつたのだ。唯円、お前も私と同じだつたんだな。さう答へるわけです。これもまた、なんとも率直な告白です。

一時的には聖人もこのことで悩んだのかもしれない。しかし唯円に答へたこのときにはすでに、「念仏行のパラドクス(逆説)」とでもいふべきものを感得してゐたのです。

それで率直な告白のあと、聖人は概略このやうに説諭する。

躍り上がる喜びがなく、浄土を慕へないのは、なぜか。それは煩悩のゆゑである。

ところが、考へてもみよ。弥陀の本願とは煩悩具足の凡夫を残らず往生させようといふことではなかつたか。さうであれば、煩悩の深みから抜け出せないでゐる我々のやうな者こそ、弥陀の本願に叶ふ者である。

だから、むしろ喜べ。我々にこそ極楽往生は確かに約束されてゐるのだ。むやみに逸早い往生を願ふ必要はない。今生の生がある限りつとめに励み、ときがくれば従容として逝けばいゝのだ。

この逆説的な信仰、どうでせう。納得できますか。なんとなく理屈でごまかされたやうな気もしないではない。

ただ、この2人には信仰生活のリアルが共有されてゐる感じがします。

初めに素晴らしい教へを聞いたと歓喜し、「この道しかない」と確信して信仰を出発する。進むうちに信心を失ふのではない。ただ、山や谷をいくつも経ながら、次第に不信もないが喜びもないといつたフラットな状態に入る段階がある。ふつうに言へばマンネリ化のやうな状態です。

これをどのやうに越えていくか。これが多くの信仰者に共通の悩みであり課題ではないかと思はれます。

親鸞聖人自身はすでに、比叡山で20年間厳しい修業に明け暮れたすえに、信仰の確たる限界にぶつかつてゐます。優秀な頭で万巻の経典を読破しても、自分の煩悩は一向に消え去らない。

そこで人智の信心を捨てて、ひとえに弥陀の本願を信じるだけの信心へと大転回するのです。そして、一度転回した道を逆戻りすることはできない。

一度人智を捨てた以上、もはや人智で弥陀の本願をあれこれ勘案するものではない。理屈のない世界で、どこまで見えない本願を信じ切れるか。それが唯一、聖人の内的な葛藤であつただらうと思ふ。

聖人を浄土門へと導いたのは法然上人です。そのかたを一度信じて入門したなら、たといそれがうそで地獄へ落ちたとしても、師を恨むことは決してない。親鸞聖人ははつきりとさう言ひ切つてゐます。

そこまで意を決し腹をくくつて出発した道であるのに、つねに喜びが湧くわけでもなく、浄土を慕ふ心がまざまざと強まるわけでもない。さういふときに、どうするか。

この難問は、親鸞に限らない。仏教にも限らず、宗教にも限らない。どんな人の人生にも訪れる「人生からの問ひ」とでも言ふべきものです。

僭越ながら、今の私はこんなふうにも思ふ。

いづれ未来のどこかでくるべき浄土への往生などは敢へて考へる必要はない。あるいは、べきではない。未来に思ひを馳せるほどに私の心は「今、こゝ」から離れる。だから、今日どのやうに喜びで生きるか。この一点にこそ心を集めるべきだ。

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