自分のすみかは誰が決めるか
キリスト教で「救ひ」と言へば、最終的には「最後の審判」を経なければならない。キリストが再臨し、審判に合格した者は天国に引き上げられ、不合格であれば地獄行きとなる。
どういふ基準で合格不合格が分けられるのでせうか。
犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。 (『ヨハネによる黙示録22:15) |
と聖書にあります。
これらの所業はすべて「悪」とみなされるのでせう。だからこれらを行ふ者はみな地獄へと振り分けられる。
これらのことはたいてい外から見て誰にでも分かることです。それがだめだといふことが分かつてゐるのなら、なにも最後の審判まで待つ必要があるのかとも思へます。地獄を免れ天国に行きたい人は、かういふ所業から今すぐ離れればいゝ。
これに対して浄土真宗の開祖親鸞聖人は、こんなふうに告白します。
いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (『歎異抄』) |
「行」とは善行のこと。どんな善行もできない自分では、地獄の運命は免れない。自分のすみかは地獄と定まつてゐるといふのです。
また、こんなふうにも言つてゐます。
たとい法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。 |
法然聖人は親鸞聖人が若い頃の6年間念仏の教へを受け、生涯師と仰ぐかたです。そのかたの教へがうそで、念仏一途の結果地獄に堕ちたとしても後悔はないといふ。人間は一体こんなふうに人を信じられるものでせうか。
このやうな言葉を読むと、親鸞聖人は自分が信心の結果極楽に行くか地獄に堕ちるかといふ、自分ながらの願望を超越してゐるやうに見えます。言ひかたを変へれば、地獄をまぬかれ極楽往生することが信心の目的ではない。
それなら一体なにが目的なのでせうか。
こゝからは私なりの見方だと断つておきます。聖人は地獄も極楽も自分の外にはないと思つてゐたのです。どこにあるか。自分自身の中にあるのです。そしてさうであるなら、自分を往生させてくれるのは阿弥陀様ではない。
往生の主体が阿弥陀様でなく自分自身であるなら、それは他力ではなく自力の信仰になるのではないか。念仏信仰の面目がどこにあるのかといふことになります。
さるべき業縁のもよほせば、いかなる振る舞ひもすべし。 |
仏教ではものごとの因は自分の中にあると見ます。しかしその因はそれだけでは現象化しない。しかるべき「縁」にふれたとき、その因がはじめて現象化する。
例へば、人目のないところで路傍に落ちた財布を見つけたら(縁)、つい密かに懐に隠してしまふかもしれない。格下の人からバカにされたら(縁)、ついカッとなつて殺意を抱くかもしれない。美しい人に触れたら(縁)、正気を失つてしまふかもしれない。
財布を着服する、殺意を抱く、不倫をする。それらは自分の中の「因」が「縁」にふれて現れるのです。そんなのは愚かな人のことだ。自分は決してそんなふうにはならない。さう断言できるでせうか。
自分の中にどんな「因」が潜んでゐるのか。それは自分にも分からない。その意味で自分を信じることも安心することもできない。それが聖人のいふ「いかなる振る舞ひもすべし」といふ率直な自己省察なのです。
自分の中にあつて自分にも分からない「因」を変へるしかない。それを誰が変へるのか。そこで自力と他力が分かれるやうにも見えますが、聖人は結局のところ、自分の「因」を変へるのは自分以外にないと思ひ定めてゐたのではないか。
ただ、その自分は阿弥陀様の無限の慈悲の中にゐる。その慈悲の中で自力をたのむしかない。だから地獄か極楽かは自分次第なのです。自分の中の「因」を浄化しない限り、自分の内面の地獄は消えない。浄化できれば浄化できた分だけ、自分の中に極楽が広がる。そのやうに信心し努める人を、阿弥陀様は決して離れない。
自分の力が及ばなければ、自分は自分の中の地獄にとどまるしかない。それは自分の力が及ばないのだから、仕方ないではないか。しかし自分の内なる地獄にとどまる自分のそばに、阿弥陀様は不動で寄り添ふ。
これはまつたく自分の推測といふしかないが、親鸞聖人は自分の中の「因」を浄化しきるのは極めて難しいと実感してゐた。さういふ自分といふものをぎりぎりまで深く見抜いた人ではないかと思ふ。

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