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善悪の二つ、総じてもつて存知せざるなり

kitasendo
善人なほもて

もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。

これはドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889~1976)が老後にしるした日記の一節です。こゝでいふ「聖者」とは親鸞聖人をさす。

ハイデガーの哲学教室にはたくさんの日本人留学生も在籍したのに、この聖者の教へを一言でも教へてくれた者がゐない。誰か一人でも十年前に教へてくれてゐたなら、私はそれを世界中に広めることに力を注いだのに。自由に動くこともできない老年の今となつては、いかにもはがゆく残念だ…

20世紀屈指の哲学者ハイデガーが親鸞の教へのどんなところにそれほどの感銘を受けたのか。それは深くわからないが、私も「仏教に学ぶ幸福論」といふyoutube動画を見ながら考へることがあります。



「『歎異抄』の名言10選」といふ動画の中で、講師が特に注目する親鸞聖人の言葉を選抜してゐます。その中の2つだけをこゝに紹介してみませう。

善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや。

これは『歎異抄』の中でも、多分最も有名な一節でせうね。我々の常識、ひいては歴代の宗教の教へさへひつくり返してしまひさうな逆説的響きがあります。

こゝで上人は「善人」「悪人」といふ言葉を使つておられる。その言葉を聞けば、われわれも大体この2種の人間がどんなものか、自分なりに想像をするでせう。しかしそもそも、こゝでいふ「善」と「悪」とを分けるものは何なのか。どういふ基準を上人自身が持つておられるのか。

名言10選の中に、かういふ言葉も出てきます。

善悪の二つ、総じてもつて存知せざるなり。

「善とは何か、悪とは何か」といふことについて、私はまつたく(総じて)分かつてゐない、と上人は率直に表白しておられるのです。

おいおい。いくらなんでも、それはおかしい。かりにも上人でしよ。一宗一派の開祖でしよ。信心は悪を排して善を行ふものではないか。信者を導くべき指導者が善悪をまつたく知らないでは、話にならない。そんなふうに思ひます。

こゝからは私の勝手な推測で考へることです。

善悪が分からないのではなく、上人の頭の中ではそもそも、善もなく、悪もない。にもかかはらず善悪を述べるのは、衆生に説話するさいの便宜的な方便にすぎない。

上人の頭にないといふことは、上人が信じる阿弥陀様の頭の中にもないといふことです。同じ『歎異抄』の中に、かういふ一節もある。

弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり。

「限りなく長い間阿弥陀様が考へぬいて立てられた本願をよくよく考へてみれば、結局は親鸞ただ一人を救はんがためであつた」
といふことにでもなるでせうか。

こゝでは、親鸞といふ人間が善人であるか悪人であるか、さういふ考へなど阿弥陀様の頭には微塵もない。あるのはただ「救ふ」といふその一事だけです。

さうすると、善人が救はれて悪人は救はれないとか、善人と悪人のどちらが先に救はれるかとか、さういふことは阿弥陀様の頭にはまつたくない。そもそも善と悪との線をどこで引くのか。

善悪の線を引くのは、現世に生きるわれわれ人間でせう。盗みをしない私は盗みをしたあの人より善である。利他的である私は利己的なあの人より善である。そんなふうに、相対的な善悪の世界を作り、その中で生きてゐるのがわれわれです。

阿弥陀様はそんなことに拘るだらうか。そんなはずはありえないと親鸞聖人は体感された。だから、「悪人が先に救はれる」と言つて何の差支へもないし、「善悪などまつたく存知ない」と言つても、一向に構はないのです。

さらに突き詰めれば、
「善悪といふ観念など、まつたく消し去つたほうがいゝ」
と上人は考へておられたかもしれない。

そんな観念があるがゆゑに、善が悪をさばいて当然と思ふし、善を標榜する人たちの仕掛ける戦争が絶えない。さう考へれば、「善人なほもて往生遂ぐ」とはまさに奇跡的なことだとも言へます。

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なるほど、池田晶子2
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