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二度の漢字放逐運動を生き残る

kitasendo
前島密

漢字と日本人とのつきあひは、もうずいぶん長い。漢字はもともと、言ふまでもないが、漢語を表記するために大陸で生まれたものです。漢語と日本語とは、まつたく系統の違ふ言語だから、日本人は漢字を使ふのに相当苦労した。

日本語を表記するのに、最初は万葉がなといわれるものを工夫し、そののち、独自のひらかなやカタカナを考案した。それでももちろん漢語を捨てたわけではない。といふよりむしろ、漢字は長く「本字」と呼ばれて、日本における文字の中で最上格に位置し続けたのです。

ところが日本の歴史の中で、この漢字を放逐しようといふ運動が大きく2度起きた。最初が明治初期、そして2度目が第二次大戦後のことです。

詳しくはふれないが、例へば、日本近代郵便の父ともいはれる前島密は、幕末において既に漢字廃止を時の将軍に建言してゐる。さらに日本最初の文部大臣森有礼はもつと過激で、日本語を捨てて英語を国語にしようとまで提言してゐる。

この方向を推進しようといふ人は結構ゐたらしいが、幸ひにして(と私は心底思ふ)そのはかりごとは遂に実現しなかつた。

そもそもどうして明治期に漢字の廃止論が出てきたのか。

さきにも書いたとおり、長らく漢字は「本字」として尊重されてきた。江戸期まで漢字のみで文書を作る男性知識人は多かつた。ところが、開化をしてみると西洋から流れ込む文物に圧倒されたのです。

科学技術にしろ武器にしろ、日本のレベルをはるかに凌ぐ。ところがこれらを作り出した西洋では、例へば英語なら、わづか26文字でこの世の森羅万象を表してゐる。

それに比べて日本語はどうだ。ひらかな、カタカナだけでそれぞれ50文字以上、そして何より数千数万におよぶ漢字を擁してゐる。覚えるにも使ふにも難儀でならない。せめてこの煩雑な漢字だけでもなくなれば、どれほど楽だらうか。さういふ考へが閃いたとしても不思議ではないでせう。

ところがその一方で、厖大な西洋の用語を日本人は精力的に翻訳していく。哲学用語、法律用語、科学用語などの分野でこんにちでも使はれてゐる多くの用語はこの時期に考案されたものです。

例へばどんなものか。

すでに出た「哲学」「法律」「科学」からしてさう。そのほかにも、裁判、産業、建築、交通、通信、鉄道、線路、自動車、体育、金融、保険、概念、権利、義務、… 数へあげたら、それこそきりがないほど膨大です。

ところが面白いことにといふか、皮肉にもといふか、かういふ膨大な新しい和製漢語のゆゑにこそ、日本人はもはや漢字を捨てることができなかつた。これらの新しい用語は着実に社会に浸透し、それらなくして社会生活は成り立たなくなつてゐたのです。それで結局、第一次漢字廃止運動は頓挫する。

2度目の反漢字運動は戦後に起こる。このときはまづ漢字の数を制限しようといふ運動として進みます。当用漢字といふものです。これで学校で習ふ漢字が減り、役所や新聞で使ふ漢字が制限される。それと同時に、種々の略字が作られる。

例へば、辨も辯も辮も辧もみな「弁」になる。あるいは體が「体」になる。傳が「伝」になる。

かなりの略字は昔から私信や原稿などの手書きでは使はれてゐたものだが、正式な漢字があることはちやんと意識されてゐた。ところが略字が正式な漢字と指定されれば、もはや元の漢字は意識されなくなり、遂には忘れ去られる。

第二運動を進めた母体は国語審議会だが、これは本音においていづれ漢字を放逐する算段だつた。だから略字などは一次的便宜的なものとして、軽く考へてゐたやうです。

しかしこれも(幸ひなことに)だんだんと尻つぼみになる。それでこんにちなほ日本に漢字が脈々と生き続けてゐるといふのは実にありがたいことです。

言語学者の新村出博士は昭和の初期、国語審議会の改革思想を批判しながら、今後の日本語表記は
「かなを主とし漢字を従とすべき」
と説いてゐます。

博士は、日本語の中に漢字を混ぜて使ふことの不便を否定するのではない。その上で、合理主義と伝統主義とが対立するなら、多少の不便は忍んでも伝統を選ぶべきであらうと主張するのです。

国語とか国字といふものは衣服を着替へるやうなわけにはいかない。衣服は我々を外側から寒から守つたり、美しく見せたりするものだが、国語国字は我々の存在の基底をなすものです。それを壊してしまへば、我々は我々の過去からすつかり切り離されてしまふ。

博士の言ふ「かなを主とし漢字を従とする」とは、どういふことでせう。和語はなるべくかなで書き、漢字は必要以上に使はないといふ趣旨かと思ふ。

この指針に照らせば、この記事の書きぶりもやゝ漢字過多かもしれない。しかし生涯慣れ親しんできた漢字の趣きといふのは、にわかに捨てがたいものです。

例へば、さきほど出てきた「忍んで」も和語だが、「しのんで」と書けば、何となく言葉の力が削がれるやうな気がする。「閃く」といふのもさうです。「ひらめく」では電光が光るやうな鋭さが感じにくい。

かなと漢字をどのやうに使ひ分け使ひこなすか。これはもとより書き手の感性の生かしどころだと思ふ。

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なるほど、養老孟司2
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2022年02月07日 (Mon) 06:44
kitasendo
Admin:kitasendo