fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

茶筒の中身をどう見分けるか

2022/01/31
思索三昧 1
茶筒

こゝにまつたく同じ作り、同じ柄の茶筒が2つある。一方には紅茶が、もう一方には緑茶が入つてゐます。ところがこの茶筒では中身が見えない。そこで、見分けがつくやうに表にシールを貼つたのです。

それぞれのシールに書いた文字は茶筒の中身を示してゐます。ところが、パッと見て分かりにくいですね。2種類のお茶を見分けるには、シールの文字の「紅」と「緑」を見比べないといけないのです。

そもそもの問題は「紅茶」も「緑茶」も黒ペンで書いてしまつたところにある。同じ色だから、2つのお茶を見分けるのに支障が生じてゐるのです。

それなら、「紅茶」の文字を赤で、「緑茶」の文字を緑で書けばよささうです。さうすると、その色の違ひが中身の違ひを表すので判断がずいぶん楽になるでせう。

もし反対に、「紅茶」を緑、「緑茶」を赤の色で書いたらどうでせう。これはさらに支障が大きくなりさうです。大きくはなるけれども、それでも最終的には見分けることができる。

それはなぜか。「紅」といふ文字は赤い色を表しており、「緑」といふ文字は緑色を表してゐるといふことを頭で理解してゐるからです。

整理すると、かういふことです。

目に見えない中身を表すために文字を用ゐる。ところがその文字には「視覚的要素」と「意味」の2つがある。その2つが近いか、まつたく一致してゐるのが最善だが、もし違ふ(ズレがある)場合には、我々は「視覚的要素」よりも「意味」のほうを優先して受け止める。ただ、そのズレが大きいほど、補正に余計なエネルギーを要する。

私が思ふに、茶筒はすべからくこの世の事象の象徴のやうです。我々がこの世の事象を把握する際、ほぼ無意識に行つてゐる脳内処理の仕組みがこの茶筒に現れてゐる。さう思はれるのです。

眼前に展開する事象の中身を把握しようとして、我々は現れた現象を観察する。その現象には五感から入る「感覚的要素」と「意味」の2つがあるのですが、我々は大抵「意味」のほうを優先して事象の中身を把握してゐるのではないか。

一つの例を考へてみませうか。

Aさんが私の目の前にゐます。Aさんには彼独特の姿かたちがある。髪型、顔かたち、背丈、服装、立ち居振る舞ひ、喋り方などなどです。茶筒の例で言へば、それらは文字の色そのものに当たります。

ところが私がそのAさんを受け止めるとき、「姿かたちそのもの」を通してではなく、むしろそれ以上に、私の中にある「姿かたちに対する理解」を通してAさんを受け止めるのです。

「かういふ顔つきの人は、かういふタイプに違ひない」
「この人の雰囲気からして、私にとつて益になる人か損になる人か」

これらは文字の意味に当たります。そして我々は往々にしてこの意味のほうを優先する。

問題はこゝからです。

私が理解してゐる「意味」は本当に正しいのか。本当に中身を正しく反映してゐるのか。

例へば、茶筒の中に緑茶が入つてゐる。当然表のシールには「緑茶」と書いてある。ところがもし私が「緑」といふ文字は「あか」といふ意味だと理解してゐたら、
「この茶筒の中には紅茶が入つてゐるな」
と間違つて判断するでせう。

かういふことが我々の日常生活の中で頻繁に起こつてゐるのではないか。さういふ危惧を覚えるのです。

判断ミスの多くは「意図的(わざと)」ではない。思ひ込みなのです。「緑」といふ文字は「あか」と読むと思ひ込んでゐる人のやうに。

我々の中にどれほど多くの「思ひ込み」があるでせうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

なるほど、小林正観2
関連記事
スポンサーサイト



Comments 1

There are no comments yet.

-

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

2022/02/01 (Tue) 07:11