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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「他為」思想から「他我」思想へ

2022/01/28
訓読三昧 0
聖書 イエス 天聖経 文鮮明
他我思想

今までは「他為」思想について語りましたが、これからは「他為」ではありません。「他我」思想を語らなければなりません。
「他」とは何かと言えば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。
(『天聖経』4-3-3-7)

「他我」思想について、
「他人と私は一つであると考へる主義」
といふ注釈が入つてゐます。

「相対が『私』だ。二人の人が一つである」
といふのはどういふことか。考へ始めると、易しい問題ではありませんね。

これまでは「他為」思想、つまり「他の為に生きる」思想を善として追求してきた。しかし究極の道は「他為」ではなく「他我」だと言ふ。「他為」と「他我」と何がどう違ふのでせうか。

「他為」は、「私」と「他(相手)」が別々です。「アベルはカイン世界のために生きよ」といふのが「他為」思想です。アベルは自分が犠牲になつても、カインに何らかの益を与へる為に生きよといふ教へです。

しかしこの場合、アベルは飽くまでアベルであり、カインは為に生きる前も為に生きた後もカインです。アベルにマイナスとなつても、カインにプラスになればそれでいゝ。そこに目的を置くのが「他為」思想だと言へます。

それに対して「他我」思想の目的は、「他(相手)」の益ではない。「我」と「他(相手)」が一つになるところに目的があるのです。

それを文鮮明先生は、かう追加説明しておられます。

「私」が相対(「他」)を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行つてこそ天に帰る…
(同上)

「他我」思想とは、「私」と「他」とが一つになることによつて、より大きな「私」になることである。そこにゐるのは「私」だけであつて、「他」が消えてしまふのです。

ふうむ。とても高尚な宗教的教へのやうには思へますが、抽象的でよく分からない。もう少しよく咀嚼してタンパク質をアミノ酸に分解しないと、栄養にはならない感じがします。

もう少し咀嚼してみませう。

天に帰るためには、「私」だけにならないといけない。「他」が存在してゐる限り、「私」が天に帰る、つまり理想的な「私」に近づくことができない。

インドの有名な格言があります。

知恵とは学んで身につけるものではなく、あなた自身が知恵となるのだ。

知恵を学んで身につけようとするとき、「私」と「知恵」とは別々です。これでは「知恵」は本当には「私」のものにならない。

どうしたらいゝか。「知恵」を「私」に取り込んでしまふのです。そして、より大きな「私」になる。これが「私自身が知恵となる」といふことではないかと思ふ。

聖書をみると、イエス様も似たやうなことを言つておられます。

わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネによる福音書14:6)

我々は往々にして人生の道、より頼むべき真理を誰かの教への中に、あるいは言葉の中に探さうとする。しかし道も真理もそんなところにはない。それらはいづれも「私」の中にある。

イエス様は「真理」を自分の中に取り込み、それによつて大きな「私」になられたのでせう。だから真理は「私」の外にはない、「私」を見よ、と言はれた。

再び文先生の言葉。

ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。
(『天聖経』3-4-3-1)

イエス様が跪いて弟子たちの足を洗つたといふ逸話は、これでせう。この態度と行動の中に「真理」が十全に現れてゐる。それ以外のところに「真理」を探す必要はない。

「私」といふのは、取るに足りない小さなものではない。より多くの「他」を取り込めば取り込むほどいくらでも大きくなり、反対に「他」は存在しなくなる。

結局この世には「私」しかゐない。「唯我独尊」の「私」になつてこそ、天に近くなる。

これではまだまだ咀嚼不足で消化不良ですね。今後の課題です。

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