「他為」思想から「他我」思想へ
今までは「他為」思想について語りましたが、これからは「他為」ではありません。「他我」思想を語らなければなりません。 「他」とは何かと言えば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。 (『天聖経』4-3-3-7) |
「他我」思想について、
「他人と私は一つであると考へる主義」
といふ注釈が入つてゐます。
「相対が『私』だ。二人の人が一つである」
といふのはどういふことか。考へ始めると、易しい問題ではありませんね。
これまでは「他為」思想、つまり「他の為に生きる」思想を善として追求してきた。しかし究極の道は「他為」ではなく「他我」だと言ふ。「他為」と「他我」と何がどう違ふのでせうか。
「他為」は、「私」と「他(相手)」が別々です。「アベルはカイン世界のために生きよ」といふのが「他為」思想です。アベルは自分が犠牲になつても、カインに何らかの益を与へる為に生きよといふ教へです。
しかしこの場合、アベルは飽くまでアベルであり、カインは為に生きる前も為に生きた後もカインです。アベルにマイナスとなつても、カインにプラスになればそれでいゝ。そこに目的を置くのが「他為」思想だと言へます。
それに対して「他我」思想の目的は、「他(相手)」の益ではない。「我」と「他(相手)」が一つになるところに目的があるのです。
それを文鮮明先生は、かう追加説明しておられます。
「私」が相対(「他」)を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行つてこそ天に帰る… (同上) |
「他我」思想とは、「私」と「他」とが一つになることによつて、より大きな「私」になることである。そこにゐるのは「私」だけであつて、「他」が消えてしまふのです。
ふうむ。とても高尚な宗教的教へのやうには思へますが、抽象的でよく分からない。もう少しよく咀嚼してタンパク質をアミノ酸に分解しないと、栄養にはならない感じがします。
もう少し咀嚼してみませう。
天に帰るためには、「私」だけにならないといけない。「他」が存在してゐる限り、「私」が天に帰る、つまり理想的な「私」に近づくことができない。
インドの有名な格言があります。
知恵とは学んで身につけるものではなく、あなた自身が知恵となるのだ。 |
知恵を学んで身につけようとするとき、「私」と「知恵」とは別々です。これでは「知恵」は本当には「私」のものにならない。
どうしたらいゝか。「知恵」を「私」に取り込んでしまふのです。そして、より大きな「私」になる。これが「私自身が知恵となる」といふことではないかと思ふ。
聖書をみると、イエス様も似たやうなことを言つておられます。
わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 (ヨハネによる福音書14:6) |
我々は往々にして人生の道、より頼むべき真理を誰かの教への中に、あるいは言葉の中に探さうとする。しかし道も真理もそんなところにはない。それらはいづれも「私」の中にある。
イエス様は「真理」を自分の中に取り込み、それによつて大きな「私」になられたのでせう。だから真理は「私」の外にはない、「私」を見よ、と言はれた。
再び文先生の言葉。
ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。 (『天聖経』3-4-3-1) |
イエス様が跪いて弟子たちの足を洗つたといふ逸話は、これでせう。この態度と行動の中に「真理」が十全に現れてゐる。それ以外のところに「真理」を探す必要はない。
「私」といふのは、取るに足りない小さなものではない。より多くの「他」を取り込めば取り込むほどいくらでも大きくなり、反対に「他」は存在しなくなる。
結局この世には「私」しかゐない。「唯我独尊」の「私」になつてこそ、天に近くなる。
これではまだまだ咀嚼不足で消化不良ですね。今後の課題です。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
宗教生活から自然生活へ 2022/03/30
-
家内安全、商売繁盛は願つたはうがいいのか 2021/01/07
-
再臨主を迎えるための基台摂理 2012/03/06
-
あなたは私に従いますか? 2012/04/04
-
スポンサーサイト