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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

創造ファシズム

2022/01/27
鑑賞三昧 0
岡田斗司夫
千尋

娘がジブリのファンで、私も良く観る。どの作品も見どころが多く、いろいろと深読みができる。それが魅力で、面白いのです。

この前、評論家岡田斗司夫のトーク動画を観てゐると、『千と千尋の神隠し』について、
「ハクは千尋の死んだ兄ではないか」
といふ彼なりの説を披露してゐて、ほうと思つた。

千尋に兄がゐたとは、作品の中に出てこない。だからこの説は岡田氏の推測なのですが、傍証がいくつかある。

父と母は本編のほとんどで豚なので姿を見せないが、冒頭と最後の様子を見ると、特に母親の態度がいかにもおかしい。ほとんど千尋と目を合はせない。受け答へがとても冷たい。どう見ても千尋との間に心の壁があるやうに思へる。

千尋は昔川で溺れかけたことがある。(これは本編で出てきます)幸ひに助かつたのだが、そのときに千尋を助けて代はりに溺れたのが兄ではないか。

千尋のせゐで息子が死んだ。それが母親の心の痛みになつた。その痛みが千尋へのあの突き放したやうな態度になつてゐる。岡田氏はさう推測するのです。

しかしもしさうなら、家に息子の遺影があつて、千尋はその顔を知つてゐる。ハクに会つたら分かるはずではないか。さういふ疑問コメントもあります。

それに対して岡田氏は、子どもを失つた父母は悲しみのあまり子どもの記憶に関はるものを処分してしまふことがある。だから敢へて遺影など家に飾らなかつた可能性は高いと言ふ。

さうは言つても、この説が正しいかどうか、それは何とも言へない。と言ふより、むしろ正しいかどうかはさほど重要な問題ではない。

岡田氏の解釈を聞いて改めてアニメを観ると、これまでとは違つた感慨がわく。今まで気がつかなかつた細部に目がいくやうになる。これが面白いところです。

作品の真意はかうである、作者の意図はかうである、それ以外の解釈はないといふ考へ方を、岡田氏は
作品ファシズム
と呼ぶ。

作品といふものはその製作者が作り上げることで完成するのかと言へば、さうではない。作品が公開され、それを観た人たちがそれぞれにその作品を解釈して初めて、そこで作品は完成する。この作品論には私も賛同します。

これに似たことをフランス人哲学者ロラン・バルトが言つてゐます。

最初にあるのは「テクスト」であり、「テクスト」が書かれた後になつて、初めて「書き手」と「読み手」が登場してくる。そして、「書き手が言ひたいこと」と「読み手が読み取つたこと」が一番最後に、テクストの派生物として作り出される。

こゝで言ふ「テクスト」とは「作りたい作品の中身」と言つてもいゝでせう。最初にテクストがあり、それが表現された後になつて初めて、製作者と鑑賞者が出てくる。その際、製作者の意図と鑑賞者の解釈はテクストの派生物なのです。特に鑑賞者の解釈は鑑賞者の数だけ生まれてくる。

このとき、製作者の意図と鑑賞者の解釈が一致する必要はない。「一致すべきだ」といふのが作品ファシズムなのですが、一致しないのが当たり前なのです。むしろ一致しないことによつてこそ、作品は完成する。

視野を少し広げてみると、この宇宙には法則がある。人間の生きる道にも原理原則がある。その根本はすでに創造主が規定してゐると考へることがあります。しかしそれは製作者の意図であつて、鑑賞者の解釈がそれに一致する必要は必ずしもない。

「創造主の意図に統一せよ」
と言へば、それは「被造物ファシズム」といふことになるし、それではそもそも創造が完成しないでせう。

創造主はむしろ、我々がこの被造世界をどのやうに解釈するかに関心を持つてゐる。

「この花はかういふ意図で造つてみたが、子どもたちはどんなふうに解釈するだらうか」

それに興味津々なのではないでせうか。

もしも意図と解釈との間にズレがあれば、それによつて創造の偉業はより発展的に完成する。意図は一つでも解釈は無数にある。それが発展的創造でせう。



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