介護は人の為ならず
先日の記事「記憶にないことは存在しない」の中で、
「認知症の人の言動の大部分は一次的な言動ではなく、二次的な言動です。つまり、周囲の人の言動に対する反応であることが多い」
といふ医師の言葉を紹介しました。
記憶にないことは存在しない - 介護三昧
例へば、食事をした直ぐ後に
「ご飯はまだか」
と耳を疑ふやうなことを言ふので、
「何言つてるの! 今食べたばかりぢやない!」
と言ひ返す。
すると、認知症者はびつくりして、
「まだ食べとりやせん!」
と激高して大声で反発することになる。
この一連のやり取りで、一次的言動は認知症者のとぼけた「ご飯はまだか」です。しかしこれは認知症者本人にとつては何の他意もない、ごく自然な言動と言へます。
問題はその言動に対する介護者の二次的言動にある。これは明らかに前の言動に対する批判であり、ほぼ否定と言つてもいゝものです。
これには認知症者がびつくりする。どうして自分がこゝで否定されないといけないのか、さつぱり分からないのです。
さうなると、認知症者は気分を害して、
「まだ食べとりやせん!」
と大声で反発することになる。そしてこれが三次的言動といふことになるでせう。
問題はどこにあるか。介護者の二次的言動にあるやうに思へます。
介護者は何をしようとしてゐるのかと言へば、介護者なりの正義を認知症者に納得させようとするのです。しかしこの正義が相手に受け容れられることは、ほぼない。
もちろんこんなことは、プロの介護士なら心得てゐるでせう。度重なる経験から学んでゐるはずです。私もこの2年間の介護経験から、これをつくづくと学びました。
相手の言動を否定すれば、それに対する二次的言動は必ず強い反発になる。こちらの否定を素直に受け入れてくれることはほぼありません。
否定は反発を生み、反発はさらに激しい対立を生む。認知症者は自分の感情をあまり飾らない分、反発はよりストレートに出てくるのです。
その反発を力づくで抑へ込まうとすれば、抑へ込まれる認知症者は自らの非力を感じてとても惨めな気分になる。一方、抑へ込んだほうも、実はあまり嬉しくない。なんだか後味が悪いのです。
介護をある程度続けて来てみると、私は被介護者のために介護者になつたのではないといふ気がしてきます。介護者はどうやら介護者自身のために介護者になるのです。
例へば、介護者になる以前、どう考へても自分が正しく相手がおかしいと思ふとき、「ごめんなさい」とは決して言へなかつた。しかし介護を続けてみると、さういふ場面で「ごめん、ごめん。悪かつたね」と言へるやうになる。自分の正義に拘らなくなるのです。
「ごめんなさい」と言へなかつた人が、介護をしながら言へるやうになつたとすれば、介護は人の為ならず。
多分、介護に限らない。どんなことでも何かをするのは、人の為にするのではなく、自分自身の為にするやうに計らはれてゐるのに違ひないと思ふ。

にほんブログ村

- 関連記事
-
-
「あるべき」と「あるがまゝ」 2022/04/16
-
イケメン高校生 2021/06/18
-
「甘受」から「機会」へ 2021/09/24
-
見えない人の名を呼ぶ 2023/01/23
-
スポンサーサイト