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記憶にないことは存在しない

kitasendo
認知症の言動

おばあちゃんの介護器具をレンタルしてゐる商会から毎月介護冊子が届く。その中に読者からの介護相談の欄があります。

80歳前でアルツハイマー型認知症と診断された夫と暮らす夫人からの相談です。

1年ほど前から「お前は誰だ。どうして俺の家の中に入つて来たんだ。俺の家内はどこに行つたんだ」と叫ばれるやうになりました。
初めのうちは話を合はせたり、一時的に別の部屋に避難することで対応してゐたが、最近は「出て行け!」と言つて手を上げるやうになつたのです。
息子が来てくれるとおとなしくなるのに、帰ると豹変する。どうしたらいゝでせうか。

いくら認知症とは言へ、長年連れ添つた配偶者から
「お前は誰だ」
と言はれるのは辛いですね。

これに対して、回答者の医師はまづ次のやうに指摘します。

「認知症の人の言動の大部分は一次的な言動ではなく、二次的な言動です。つまり、周囲の人の言動に対する反応であることが多い」

夫の「お前は誰だ」とか「出て行け」といふのは二次的言動であり、それを誘発する一次的な言動があるといふことです。この相談の場合、一時的な言動の主は、もちろん夫人でせう。

相談には夫人がどんな言動をしてゐるのか具体的に書いてはない。しかし二次的言動から推測するに、何となく分かるやうな気がします。

一次的言動と二次的言動とは作用反作用の法則に則るので、周囲の人が優しく受容的に接すれば、認知症の人は穏やかな言動をする。逆に説得や否定は反発的な言動を誘発する。

認知症の人と暮らしてゐると、説得や否定が出やすい。

「何度も同じことを言はないで。うるさいよ」
「いま説明したばかりでしよ。どうして分からないの?」
「さつき納得してくれたぢやないの」

かういふ一次的言動が穏やかな二次的言動を誘発することは、ほぼない。

これは何も認知症の人に限らない。非認知症の人同士の関係であつても十分考へられます。ただ、認知症の人は自分を飾らない分だけ、反応がストレートに現れるのだと思ふ。

我が家のおばあちやんはだいぶ前から、今食べた食事のことを忘れるやうになりました。美味しい美味しいと言ひながら喜んで食べてゐたのに、食べ終へた途端、「今日の夕食はまだかね?」と聞いてくるのです。

「今食べたのが夕食だよ」
と言ふと、
「食べとりやせん」
と断固言ひ張る。

最初にこの反応が出たときには驚いたが、度重なると慣れてきます。

「お腹が空いた? 準備するから、もう少し待つてね」
と宥めると、納得してそのうち目を瞑つて寝息を立て始めることが多いのです。

かういふ様子を見ると、
「本人の記憶にないことは、本人にとつて存在しない」
といふことが合点されてきます。

これを逆に考へれば、我々が
「過去の時点のある出来事が在ると思ふのは、記憶があるからに過ぎない」
といふことが分かります。

「今夕食を食べた」といふ記憶がある私は「おばあちやんは夕食を済ませた」と認識してゐる。しかし、その記憶がないおばあちやんにしてみれば、「夕食を済ませた」といふ事実は存在しないのです。

私とおばあちやんと、どちらが正しいのか。ふつうに考へれば、正しいのは絶対に私で、おばあちやんは哀れな認知症害者でせう。しかし私の記憶が正しいといふ保証は一体どこにあるのか。

その設問はちよつと極端に過ぎるかも知れない。しかしそれでも考へてみれば、私だつて過去のすべてを記憶してゐるわけではない。むしろ大半のことは忘れてゐるのかも知れないのです。

昨日の夕食を食べたといふ記憶は辛うじてあるものの、それなら何を食べたかと聞かれると俄かには思ひ出せない。これでは、食べたことの半分は忘れてゐると言つてもいゝでせう。

記憶といふのは我々が生きていく上で必須だと思つてゐるのですが、必ずしもさうとは言へない。記憶は結構いゝ加減なものであるし、時として厄介なものでさへある。

さう考へていくと、おばあちやんが食べた直ぐ後で「夕食はまだかね?」と聞いてきても、腹が立たなくなるのです。「せつかく時間をかけて作つてあげたのに」といふやうな恩着せがましい思ひは一切湧いてこない。

こちらが相手を否定しなければ、相手の二次的反応は必ず穏やかに返つて来る。これは私にとつて、ずいぶん楽です。

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