畏みて詔り直す
『古事記』に天岩戸隠れの物語があります。
弟の須佐之男命があまりに暴虐を働くので、姉の天照大神が岩戸(洞窟)に隠れるといふ話です。なぜ岩戸の中に身を隠したのか。弟を怖れたのか。あるいは子どものやうにすねたのか。天下の最高神である方が、さすがにそんなことはないと思ふ。
スサノオは田の畔を壊したかと思ふと、今度は宮殿にウンコをまき散らす。極めつけは馬の皮をはいで機織りの小屋の屋根から放り込むと、機織りの女性が不運にも死んでしまふ。
このやうな狼藉を見てアマテラスは岩戸の隠れるのですが、そのときのことをかう描写してゐます。
ここに天照大御神 見畏( みかしこ )みて、 天( あめ )の岩屋戸(いはやと)を開きてさし篭(こも)りましき。 |
「畏(かしこ)みて」といふのは、「怖れて」とは違ふ。「かしこみかしこみ申す」と祝詞にあるやうに、「謹んで」といふやうなニュアンスです。
弟の振る舞ひはあまりにもひどいのに、なぜそれを「謹んで見る」のか。
アマテラスはお隠れになる前に、一度「詔(の)り直す」ことをしておられます。
田の畔(あ)を離ち、溝を埋むるは、地(ところ)を惜(あたら)しとこそ、我(あ)が汝弟(なせ)の命、かく為(し)つらめ」と詔(の)り直 (なほ)したまへども… |
スサノオは田を壊したのではなく、新しく田を広げようとしたのだ。さういふふうに目の前の事態を「言ひ直された」のです。もちろんさう言ひ直したからと言つて、スサノオの行状はすぐに変はつたわけではない。
それでもこの「詔り直す」といふ行為は、アマテラスご自身の中ではとても重要な転換だつたのです。
それまでは、弟は手に負へない。父イザナギの御心に従ふべきなのに、弟はいつまでも亡き母に会ひたいなどと言ひ募つて父と姉を困らせてゐる。我が儘からこんな狼藉までするとは何事か。さう思つてゐたのです。
ところがふと、アマテラスの中に意識の転換が起こる。
「弟が聞きわけがないのでこんな乱暴をしてゐると思つてゐたが、もしかしてさうではないかも知れない。弟の乱暴は私の意識の反映ではないか?」
アマテラスの中に思ひがけない閃きが来るのです。
姉弟ともに、生まれたときにはイザナミは死んだ後なので会つたことがない。本心を見つめれば、アマテラス自身も一度母に会つてみたい。しかし父の意向に沿ふべきだと思ふ長女の責任感から、その本心を抑へてゐた。弟はその気持ちをありのまゝに現してゐただけだ。そのことに気づくのです。
すると改めるべきは弟の外的な行動ではない。アマテラス自身の内面の思ひであり、認識なのです。そこであの「詔り直し」が出てくる。
詔り直した後も弟の乱暴はやまないので岩戸に隠れるのですが、その時の心は怒りでも怖れでも批判でもなく、「謹んで」なのです。問題は自分自身にあると分かつてゐる。
岩戸は暗闇の世界です。何も見えないから、自分の内面に目を向けるしかない。
「自分の何が問題なのだらう。私の認識、私の態度をどう変へたらいゝのだらう」
そのやうにひたすら自分を見つめる。それが天岩戸隠れの秘密です。
「詔り直し」と「岩戸隠れ」。この二つは、折にふれ、我々にも必要なことではないかと思はれます。

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