ダイモンに憑かれた人
ロゴスという名のダイモンに憑かれていたソクラテスは、同じくロゴスという名のダイモンの命じるままに死んだ。すなわち彼は、ロゴスをそのまま実行したということだ。実行家を愛する小林(秀雄)にとって、これ以上魅力的な哲学者はいなかったのではなかろうか。… あれら考える人々が、同じく考えるわれわれを魅了してやまないのは、彼らが彼らの無私によって、われわれを自身に目覚めさせてくれる人々だからだ。精神には、自分に出会うという以上の喜びは存在しない。 (『新・考えるヒント』池田晶子) |
ソクラテスにはダイモンといふ霊が憑いてゐたと言はれます。それがどんな霊かについては、例へば、田中美知太郎氏などが詳細に論じてくれてゐるさうですが、高校のときに読んだきりで、まるで頭に残つてゐない。
私は覚えてゐないが、小林氏はもちろんよく知つてゐる。その上で、小林氏はかう書いてゐます。
(ソクラテスのダイモンについては)既に縦横に検討されているので、私の如きが、もう何も言う事がないと思うのであるが、ただ相手がダイモンであるから、研究者にもはっきりとした決め手がないわけで、蛇足的な感想を書く余地もあろうか、というだけの話である。 (『考えるヒント』小林秀雄) |
これはなかなか意味深長な一文です。
研究者田中氏はソクラテスのダイモンについて、確かに論理的に詳細に論じてくれてはゐる。しかし、それでもはつきりとした決め手がないといふのは、こゝといふ核心を突いてゐないと暗に言つてゐるのです。だから蛇足的な感想といかにも控へめに言つてゐるけれども、実は自分でなければ書けないダイモンの秘密があると確信してゐるのが小林氏の本心なのです。
その確信はどこからくるのか。
相手は目に見えないダイモンである。その正体を突き止めるのは、ソクラテスに憑いてゐたと同じダイモンが憑いてゐる人間でなければできない。つまり、小林氏は自分にもソクラテスと同じダイモンが憑いてゐると知悉してゐるのです。
こゝで最初の引用に返つてみます。
ソクラテスも小林氏もロゴスといふダイモンに憑りつかれてゐた。それはつまり、両者ともに自分の頭で考へてゐるとは思ってゐない。個人といふものを超えたダイモンに促され、ロゴスに導かれて考へてゐる。それが二人の確信であり、実感なのです。
それを池田氏は「彼らの無私」と表現する。彼らの言説には「私」がないといふのです。そしてこの「無私」ほど強烈な魅力はない。池田氏はその魅力に惹かれてやまない。
その魅力の本質とは何か。「無私な言説」に従つて考へていくと、「自分とは一体何者か」といふことが徐々に徐々に見えて来る。これ以上の魅力、これ以上の喜びはないといふのです。私も多分、うつすらとそれを感じてゐる。
ソクラテスを研究し、ダイモンの正体を解明することに価値があるのではない。ロゴスのダイモンによつて考へ、その命じるまゝに生きた人の後に従つてみると、自分自身の正体が分かる。これが真の目的なのです。
私が言ふのは口幅つたいけれども、小林氏の目に田中氏はソクラテス当時のソフィストに見えてゐたのではなからうか。田中氏だけではない。およそダイモンに憑かれてゐないでダイモンに憑かれた人を論じる人はソフィストにしかなれない。
一体ダイモンに憑かれた人は、この世にどれくらゐゐるものでせうか。1000万人に1人とすれば、今の日本なら12人。小林氏はその中の1人だつた。それ以外の大半の人はソフィストにしかなれないことになります。
内省することのない自己が乱れて寄る辺を見失うのは、今に始まったことではない。だからこそ、内省する人々の言葉は、どんな世でも、我々の中で石のように動かないのである。これは、本当に素晴らしいことではないか。 (『新・考えるヒント』池田晶子) |

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