「自己」とは点である
ここでは感覚という入力系と運動という出力系に分けて考えている。入力がいわば「折れかえって」出力に変わると考えると、入力から出力へ変化する折り返し点がどこかにあるわけで、それが「自己」の位置になる。この「自己」はあくまでも点であって内容はない。… 『「自分」の壁』では、自己とは「現在位置の矢印」だと規定した。 (『ヒトの壁』養老孟司) |
養老氏は
「入力から出力へ折り返すその点が『自己』である。だから『自己』はあくまでも点であつて、内容はない」
と言つてゐます。
こゝだけ取り出して引用しても分かりにくいとは思ふ。しかし私としては、「自己とは点である」といふのは、何だかとても合点がいく気がするのです。
「自己」あるいは「自分」とは何か。さう考へると、自分にはいろいろな内容があると思ふ。それがふつうの感覚でせう。
生まれてこのかたの数多くの体験とその記憶。その時々に感じてきた感情や獲得した知識。さういふものの総体が「自己」ではないか。さう思ふ。
それなのに、「自己とは点である」とか「自己とは現在位置の矢印だ」と言ふ。どういふことか。その意味について、私なりに少し考へてみませう。
五感といふ感覚器官を通していろいろな情報が入つてきます。音声や映像、匂ひ、感触などです。
それが電気信号となつて脳の特定の部位にまで到達すると、それに反応した何らかの出力が起こる。その入力を出力に転換する点が「自己」だと言ふわけです。
例へば、薔薇を見る。色や香りの情報が感覚器官を通して入つてきます。それに対して「あゝ、きれいだ」と思つたり、摘んで花瓶に挿して食卓に飾つたりする。これが出力ですね。
このとき、「きれいだ」と感じたり、摘んで飾らうとするその点が「自己」だと考へられます。それをふつうには、「私が感じ、行動してゐる」と思ふ。何か「私」といふ確固たる主体的な存在があると感じてゐるのです。
ところが人によつては、同じ薔薇を見ても「きれいだ」と感じないかも知れないし、「摘んで飾らう」とも思はないかも知れない。それは、入力と出力がどこで折り返すかの違ひから来る。あるいは、折り返す「矢印」の方向が違つてゐると言つてもいゝでせう。
そのやうな違ひは一体どこから来るのか。それは多分、それぞれが関連してゐる記憶や感性の違ひによるのだと思ふ。
もうちよつと別の例を考へてみませう。
ある人からある言葉をかけられたとします。それは入力です。その言葉に対して、ある人はムッとして気分を害し、反論反撃をする。これは出力です。
ところが別の人は同じ言葉をかけられたのに、全然気分を害することなく、むしろ有り難いなと思つて感謝するとします。入力は同じなのに、出力が全然違ふわけです。
これは何が違ふかといふと、折り返し点と矢印の方向が違ふのです。
こんなふうに考へると、「私」といふ人間は、折り返し点と矢印の方向を変へることによつて「自己」を変へることができる。「自己」といふのは固定されて変はらないものではなく、点の位置と方向さへ変へればいくらでも変へられるものだと思へてきます。
「自己」とは点であつて、内容があるやうで、実はない。それを仏教では昔から「無我」と言つたのではないか。そんなふうにも思へてきます。
だから「私」といふものに、あまり固執する必要はない。「私にこんなことをするとは何事か」とか「私の自尊心が傷つく」などといふ反応は、「自己」に何らかの「内容」があると思ふ勘違ひから来るものです。

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