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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

あゝしても、かうならない

2022/01/09
思索三昧 0
養老孟司 茂木健一郎
脳の変数

脳科学者の茂木健一郎氏はyoutube動画の中で、
脳は予想できない。この事実をみんなもつと(きちんと)受け止めたほうがいゝ」
と言つてゐます。



決定論的カオスといふ理論があり、仮令方程式で書ける現象があつても、パラメーター(変数)が3つとか4つになると、もうどうなるか分からない。脳のパラメーターは3つ4つどころではない。だから、脳はどう動くか予想できない。

例へば、今から1分後に自分が何を考へてゐるかを予想できるか。脳はオープンシステムなので、今ご飯のことを考へてゐても、外から救急車のサイレンの音が聞こえてきたら、その瞬間「あれ、何が起こつたんだらう?」といふ考へに切り替はつてしまふ。

このやうに、脳は予想できないと考へることがなぜ重要かと言ふと、
「今私はこんなふうに考へてゐる」
と思つたとしても、1ヶ月後、1年後にはまつたく違つた考へに変はつているかも知れない。

自分の脳でさへそんなふうに分からないのなら、他人の脳のことはもつと分からない。それなのに我々はしばしば、
「あの人は、かういふ人だ」
と決めつけてしまふ。

我々の脳はいつどんなふうに変はるか分からない。従つて、人はそれぞれいつまでも同じではないし、決めつけることはできない。さうすると、我々は自分の人生をもつと自由に捉へることができるのではないか。

茂木さんを見てゐると、話しぶりはいつも何だか楽しさう。楽天的で、人を無闇に批判しない。さういふ人生の態度は、この脳理解から来ているらしいといふことが分かります。

ところがもう少し考へてみると、3秒先のことも予想できないはずの脳が、
「あゝすれば、かうなる」
と考へるのが好きなのです。これは何だか変ですね。

解剖学者の養老孟司氏は、

「ああすれば、こうなる」が成立するように人は社会を構築する。それが都会である。意識の産物であり、理屈が重視される。
(『
ヒトの壁』)

と書いてゐます。

養老氏は「都会」を「現象化した意識」の象徴と捉へてゐるのです。都会生活は「ああすれば、こうなる」といふやうに、一つの考へ、一つの行動は、かういふ次の考へや行動を生み出すと予想できる生活。といふか、予想できると前提して構築される生活です。

一言で言へば、人工的。意識はさういふものを作りたがるといふことです。

しかし、意識の現実的土台となつてゐる脳自体は「あゝすれば、かうなる」と予想できないものです。自分自体の3秒先のことも予想できない脳が「あゝすれば、かうなる」と予想する未来像など、一体信用できるものでせうか。

「あゝすれば、かうなる」といふのは幻想ではないか。もしさうだとすれば、「あゝすれば、かうなる」の土台の上に成り立つてゐる「都会」といふものも大きな幻想だといふことになる。

もちろん「都会」といふのは一種の象徴的表現であり、仮令田舎に暮らしてゐても、その生活はいくらでも「都会生活」になり得ます。要は意識中心の生活といふことです。

「あゝしても、かうならない」
「あゝすれば、かうなるかも知れないし、あゝなるかも知れない」

我々が本当に生きてゐるのは、さういふ予想できない、可能性は無限にある世界だといふことです。

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