心に対して祈る
祈るときは、心に対して祈らなければなりません。どれほど心が願うとおりにしたでしょうか。心を後回しにしていくら神様を呼び求めても、通じません。心と一つになってこそ、通じるようになっている神様です。 (『天聖教』4-1-2-22) |
祈りと言へば、当然神に向かつてするものである。長い間さう思つて、他の考へはなかつた。しかしこれはもしかして大きな勘違ひだつたのではないかといふ疑ひが湧いてきます。
文鮮明先生は、「祈るときは、心に対して祈れ」と言はれる。神に祈るのと心に祈るのと、何がどう違ふのでせうか。これは相当に深い問題です。
神に祈らうとするとき、私の根底にあるのは「願ひ」「選択」「決意」などでせう。例へば、私に何らかの強い願ひがあれば、その実現に力を貸してほしいと一生懸命に祈る。
その時私のその願ひが一体どこから来たものなのか。それをじつくり考へてゐるでせうか。
神に祈る前に、
「私はなぜそれを願ふのか?」
と自問自答してみる。
これを「心に対して祈る」と言つてもいゝのではないか。そんなふうに考へてみます。
何かを願ふとき、理由もなしに願ひはしない。そして大抵その理由は、私があれこれ頭で考へて出てきた理由ではない。どこか私の深いところから湧き上がつて来るのです。
だから本当のところ、私がなぜそれを願ふのか、自分でもはつきりと分かつてゐない。その願ひをすぐ神に祈れば、私がなぜそれを願ふのか分からないまゝ祈ることになります。
私自身を振り返つてみると、神に祈りながらも、自分がなぜこれを祈つてゐるのか、明確に分からないまゝ祈つてきたやうな気がする。もしさうなら、ずいぶん無駄なエネルギーを消耗してきたのではないか。否、それ以上に、祈りのとんでもない間違ひを犯してきたのではないかとさへ思はれてきます。
心に対して祈るとは、
「私はなぜ今これを願ふのか」
「私はなぜ今これかあれかの選択に戸惑つてゐるのか」
さういふことを自分自身の中で問うてみる。
こゝで私が自分の心に正しく祈ることができれば、その自問への答へは神ではなく心がすでに出してくれるのではないか。さうすると、もはや私が神に祈ることはなくなつてしまふ。
それでももし神に祈るとすれば、
「私はかういふ理由でかういふことを願つてゐることが分かりました」
といふ報告をするだけです。
こゝで少しだけ付け加へて考へると、私が心に対して祈るといふことは、私と心とは別ものだといふことです。私たちはふつうに「自問自答」をしますが、これは私の中に「問う者」と「答へる者」の二者がゐるといふことです。
これは、考へてみると、実に不思議なことですね。「問う者」は誰で、「答へる者」は誰なのでせうか。

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