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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

蛍の童話

2022/01/05
愛読作家たち 0
小林秀雄 池田晶子
蛍の童話

先日久しぶりに動画をYoutubeに投稿した。タイトルは「蛍と小林秀雄」。我ながら、あまり人気が出さうな話題ではありません。



小林氏のお母さんが亡くなつた直後に、「おつかさんといふ蛍」に出会つたといふ経験を書いた随筆が題材です。この経験自体はとびきり風変はりといふわけではないのに、面白いことに、これを取り上げる人が複数ゐる。

例へば、作家の適菜収氏が『小林秀雄の警告』で。もう一人、文筆家(哲学者)の池田晶子氏が『新・考えるヒント』で。

どういう経験を小林氏はしたのか。

最愛の母が亡くなつて、小林は相当落ち込んでゐた。ある夕暮れどき、仏にあげる蝋燭が切れたので、買ひに出かけた。

家の前の道に沿つて小川が流れてゐる。家の門を出ると、目の前に1匹の蛍が飛んでゐる。

それを見て小林は、
「今年初めて見る蛍で、見たこともないほど大ぶりで、普通とは異なつてよく光つてゐる。おつかさんが蛍になつて飛んでゐる
と思つた。

経験としては、これだけのことです。ところが、小林氏の書きぶりが少し屈曲してゐる。

経験を書いた後で、
「実を言へば、私は事実を少しも精確には書いてゐないのである」
と書くわけです。

精確に(あるいは経験をありのまゝ正直に)書けば、
おつかさんといふ蛍が飛んでゐた
と書くことになるといふのです。

「おつかさんが蛍になつて飛んでゐる」
と書くのと、
「おつかさんといふ蛍が飛んでゐる」
と書くのと、文面としては些細な違ひにも見えるが、実はまつたく違ふ。

前者は、小林氏が後になつて作り出した「解釈」なのです。母親が亡くなり、落ち込んでゐる息子の前に蛍の姿をとつて現れてくれた。そのやうに書けば、蛍の光と愛する母親の魂のイメージが重なつたのだと、心理学的に納得がいく。

それに対して後者は、心理学風な解釈など何もない。蛍を見たときの瞬時の直観なのです。見た目がまつたく違ふ蛍といふ虫がおつかさんだと分かる。その直観です。

これに続く小林氏の文を読むと、
「おつかさんといふ蛍が飛んでゐた」
といふのは「私の童話」だと言つてゐます。

こゝで言ふ「童話」とは、子ども騙しの作り話といふ意味ではない。

童話といふのはありのまゝの事実に基づいてゐて、曲筆がない。ただ、初めから童話を小林氏は書かなかつた。初めに解釈を書いておいて、その後で「実は」と言つて本当の体験を書く。こゝには小林氏の巧妙なレトリックがあると思ふ。

解釈の入つた体験談とありのまゝの童話を並べて書く。体験談は納得がいくが、童話は不思議だ。

その二つを比べて、
あなたはどちらが真実だと思ふか
と問うてゐるやうに思へます。

かう書いてゐます。

寝ぼけないでよく観察してみ給へ。童話が日常の実生活に直結してゐるのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考へれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであらう。

我々の中に定着してゐる「あらゆる物事に合理的説明を求める近代的精神」に小林氏は随分辟易してゐたのではないかと、私は思ふ。不思議をどうして不思議のまゝで受け止めないのか。なぜいちいち説明を求めるのか。それが小林氏の言ひたいことではないかと思ふ。

振り返つてみれば、誰にでもこれに類似した「童話」がいくつもあるに違ひない。私にも蛍にまつはる「童話」がある。それで余計に小林氏の「童話」に拘る気持ちがよく分かる気がするのです。

お母さんだつたね、あのホタル… - 生活日記

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