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時間の主人

kitasendo
年越しそば

鴨長明が
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」
と書くとき、彼はもちろん川の中にゐない。川の流れを見つめてゐる彼は、川の中にゐるのではなく、川の流れが見える土手かどこかにゐる。

あるいは、方丈の庵に座してゐて、想念の中に川の流れを思ひ描き、それを言葉に表してゐるだけかも知れない。

絶えることのない川の流れを今、「時間」を譬へたものと考へれば、鴨長明は「時間」の中に生きてゐない。彼は「時間」といふ流れの外にゐて、それを見つめてゐるのです。

逆に考へてみると、「時間」は一体どこにあるのか。「時間」は私の外に客観的に流れてゐるのではなく、私の意識の中にあるのです。

「時間」を秒とか分、あるいは日、週、月、年などと様々に長さを区切るのは私の心です。体が属してゐる世界にはそんな区切りは存在しない。

古くは、月の終はりを「晦日」と呼んでゐた。今でも12月の終はりだけは「大晦日」と呼んで、何か特別な日のやうに考へます。

それで、その日の夜には「年越しそば」を食べ、除夜の鐘を聞きながら、「今年一年はどんな年だつたかなあ」と振り返る。そして一夜が明けると、今度は「おせち料理」を食べる。

子どもの頃には、この期間にいろいろな楽しみがあつた。大晦日の夜は「紅白歌合戦」の一部始終を観るのが楽しみだつたし、年が明ければお年玉が待つてゐた。

ところが今年は家にゐるのは私とおばあちやんの二人きりで、おばあちやんは大体寝てゐて、朝も夜もない。大晦日の夜中でも構はずウンチをする。

そんなふうだと、大晦日も元旦も特別な感じがしない。そんなものがあるのかなあといふ感じでふつうに過ぎていく。

さうすると、
「大晦日も元旦も、私の心の中にあつたものなんだなあ」
といふことに気づくのです。

ところが逆に、さつきは体の世界に時間の区切りはないと書いたが、実は体のほうこそとても正確な時間のコントロール機能を有してゐるのです。

体はその器官において複数の時間を刻んでおり、それぞれが異なるスピードで設定されてゐます。

例へば、赤ん坊のとき、脳が新しい結合を作るのはすごく早く、反対に頭蓋骨の隙間が閉じるスピードはゆつたりとしてゐる。

ニューロンの発火や赤血球による酵素の吸収などは1000分の2~3秒で起こり、乳歯の喪失や完全な免疫システムの形成などには数年をかける。さらに思考の成熟や髪の毛の白髪化などはとてもゆつくりと数十年をかけてゐます。

こんなことは心の与り知らぬことであり、体が勝手に調整してゐる。体は「時間」を自らの利益になるやう調整してゐるのです。

さういふ意味で、体は決して「時間」の犠牲者ではない。むしろ心のほうこそ、「忙しくて時間がない」とか「約束に遅れさうだ」などと、始終思ひ悩んでゐる。「時間」の犠牲者になりやすいのは心です。

体にとつて「時間」は決して敵ではない。仮令大晦日も正月もなく過ごしたとしても、設定の通りに髪の毛は着実に白くしてくれるし、物忘れも徐々に進む。問題は、心が「時間」の犠牲にならず、むしろ「時間」の主人になれるかどうかです。

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