人生は逆なのです
仏教に「托鉢」といふ行があります。お坊さんが笠をかぶり、鉢を持つて家々を回り、お布施をいただくといふ行です。
一見すると、お布施を出す人が「与へる人」で、お坊さんが「受ける人」のやうに見える。しかし、真実は逆のやうです。
お釈迦様はかう言つて弟子たちを托鉢に送り出した。
「托鉢は金持ちの家ではなく、貧しい家を回りなさい」
お布施をもらふのなら、金持ちのほうがいゝに決まつてゐる。さう考へるのが常識でせう。ところが、お釈迦様の考へは違つてゐた。
貧しい人はなぜ貧しいのか。それは、自分のためにしかお金を使はないといふ心性のゆゑである。だから、お布施に行つて、その人たちに「与へる喜び」を味はつてもらふ機会を作る。それがお釈迦様の考へる托鉢の目的だつたのです。
「与へる人」のやうに見えるその人が、実は「受ける人」。「受ける人」のやうに見えるその人が、実は「与へる人」。だから逆だといふわけです。
この例に倣つて、この世の常識と真実とは逆であると考へてみます。
夫婦で初詣で神社にお参りして、お神籤を引いてみる。今年1年の運勢を占つてみようと思ふのです。
すると、夫は大吉で、妻は凶。この場合、今年1年の運勢はどちらがいゝかといふと、それは妻のほうで、大吉の夫は用心しなければならない。
大吉といふのは運を神様から存分にもらつてゐることだから、その運は周辺にうまく与へないと、却つて災厄になりかねない。逆に凶といふのは運の最底辺だから、努力すれば運は流れ込むしかない。
自分としては特段の努力をしてゐるつもりがないのに、何だか物事がうまくいく。さういふときは大吉のやうですが、神から試されてゐる。神に近いやうで、その実、最も神から遠い。
逆にやつてもやつても物事がうまくいかない。どうして自分の人生はこんなに苦労続きなのだらう。さう思ふときは、むしろ最も神に近い。
イエス様がなされたといふ「山上の垂訓」の一節に、
「悲しむ人々は幸いである。彼らは慰められるであらう。義のために迫害される人々は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ福音書5:1~10)
と言はれたのも、これに通じる話のやうに思へます。
神ご自身は大吉の方ではなく、凶の方である。さう考へれば、辛い立場、難しい境遇のほうが神に近い。誰かが凶の立場を担当しなければならないのだとすれば、神は私を信頼してその立場に置いてくださつた。
人生のお神籤を引くなら、凶のほうがいゝ。人生の真実は逆なのです。

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