中過度我身と皇統
コロナ禍を配慮して、今年も昨年同様、一般参賀が行はれないため、天皇皇后両陛下のビデオメッセージが届けられてゐます。短いメッセージですが、それを拝見すると、両陛下が国民全体にかけてくださる御心を感じることができます。
陛下が国民を思ふといふのは、為政者(例へば総理大臣)が国民のために働くといふのと、同じではない。何かが違ふことを我々は感じる。それは何でせうか。
天皇家には様々な年中行事がありますが、毎年元旦の早朝に執り行はれるのが「四方拝」と呼ばれるものです。文字通り、天地四方の神々に向かつて敬拝と祈祷を捧げる祭祀です。
実際にどのやうな祈りを捧げられるかは門外不出で分かりませんが、平安時代に編まれた『河家次第』の中に、当時の祈りの言葉が記されてゐます。
その中の一節を紹介すると、
「賊寇之中過度我身」
「毒魔之中過度我身」
などと「中過度我身」といふ言葉が繰り返されます。
その意味は
「我が身の中にすべてを通り過ぎよ」
といふものです。
つまり、
「賊寇も毒魔も、日本に来るなら、まづ我が身を通り過ぎよ」
といふ祈願です。
このやうに祈る国民がゐるでせうか。為政者がゐるでせうか。こゝに、日本で2000年以上続く天皇家の本質を見るやうな気がします。
皇統とは何か。それについて、皇學館大学の新田均氏の説明が参考になります。
皇統は世襲なのですが、新田氏によると、世襲の概念には大きく分けて2つある。一つは「氏(うじ)」の世襲、もう一つが「家(苗字)」の世襲です。
皇統は「氏」の世襲です。古来東アジアでは父系のことを「氏」と呼び、同じ父系に属する一族を他の父系に属する一族と区別するために「姓」といふものを用ゐてきた。そして、一族の先祖を祀る祭り主の地位は父系によつて受け継がれてきたのです。
父系に属する限り、女性であつても天皇の地位(祭り主)に就くことはできる。実際、過去に10代8人の女性天皇がおられます。
ところが、なぜ女性天皇が少ないかと言へば、それは祭祀の過酷さにある。宮中祭祀は数多いし、例へば先ほどの「四方拝」にしても、元旦といふ寒中に戸外で行はれることもあるのです。女性には荷が重すぎる。
世襲のもう一つは、「家」の世襲です。これは財産・地位・職業を世襲する。それで結婚して同じ家を守ることになつた男女は同じ苗字を名乗るのです。
財産・地位・職業を継承する「家」にとつて、血筋すなはち父系の継承は二の次です。大切なのは財産などを守る能力ですから、そのためには娘に婿を取つて家を継がせるといふことも頻繁にあつた。それでも「家」は続いてゐると考へる。それが「家」の世襲観です。
皇位継承は「家」の継承ではなく、「氏」の継承です。家族による財産や職業の継承ではなく、本質は父系による「祭祀」の継承なのです。
これが皇統において父系が続く理由です。
近世までは皇室以外でも、「氏」の観念と「家」の観念が併存してゐた。例へば、徳川家康の正式名は「徳川次郎三郎源朝臣家康」と言ひます。徳川といふ「家」の、源といふ「血筋(姓)」の、家康といふ名乗り方なのです。
ところが、明治以降、この併存に終止符が打たれ、日本人の名乗りは苗字に統一されたのです。つまり、こんにち我々の世襲感覚は「家」のみとなつているのです。
我々は、娘が養子をもらつて家を継いでも血は繋がつてゐるやうに考へる。ところがこの世襲感覚は近代以降のものだといふことを理解する必要があります。
最近アンケートを取れば、「女性天皇」の容認はもとより「女系天皇」さへ容認する声が一定数存在することが分かつてゐます。これは恐らく(私自身も曖昧だつたやうに)歴史的な世襲感覚が変化してゐるからなのです。
祭り主としての天皇の地位と不可分な父系継承を否定すれば、どうなるか。皇祖の祭り主ではない天皇を容認したことになり、それはつまり、誰でも皇祖の祭り主になれるといふ意味で、天皇の地位そのものを否定することになるのです。
誰でも能力があり、「中過度我身」と祈れる人なら、天皇になれるといふことでいゝのかどうか。それでいゝかどうかといふことが問題です。

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