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報酬の主人

kitasendo
swedenborg

18世紀の大科学者で、スウェーデンボルグという人がいます。
彼の『霊界日記』を時々読み返すことがあります。
神秘主義者としても知られる彼の霊界体験は膨大な量になりますが、
その中で、霊界における「報酬」に関して次のように分析しています。

そこに住む者は、すべて「役立ちの義務」を負っている。
義務の内容は、教える者、導く者、守護する者など多種多様であるが、
その義務に対する報酬は共通している。

すなわち、
役立つことによって得る歓喜それ自体
があらゆる活動の報酬なのだという。

これは、この世で言えば、普通の職業よりもボランティア活動に近いと言えるでしょう。

このような心理学の実験があります。

あるグループに課題のパズルを与えると面白がって休憩時間も夢中になってやる。
ところが、別のグループに同じ問題を出して、一問につきいくらかの報酬を払うことにすると、
彼らは休憩時間をキッチリ休むようになるという。

報酬を設定した途端、パズルを解くという「趣味」が「仕事」に変質するわけです。

「趣味」でやっている時は、自分が「趣味」の主人であり、
「仕事」としてやり始めると、「仕事」が私の主人となる。

言い換えれば、「趣味」というのは、そこから得られる「喜び」そのものが報酬であるのに対して、
「仕事」は「金銭」が報酬となる、ということです。

私にこういう体験があります。

米国の神学校への留学費を捻出するために半年間、
派遣社員の多いトラックの組み立て工場で働いた時のことです。
完全時間給の職場で、2時間おきに10分の休憩が巡ってきます。
休憩チャイムが鳴るやいなや、寸秒の間もおかず、すべての作業員が一斉に持ち場を離れ、
自販機に走ったり、ベンチに座ってたばこを吹かしたりするのです。
給料として換算されない10分間に余分な仕事をしようという人は(私も含めて)
ほぼ皆無なのです。

そこはまるで、マルクス経済学で言う「労働価値説」のような世界で、
労働時間が給料という価値を決定します。
その両者の相関関係が明確に決められているために、
労働者は時間というものに心を縛られる結果になるのです。
価値を生み出さない労働に、自分のエネルギーは寸分たりとも提供したくないのです。

私たちはこの世において、労働というものには必ず報酬が用意されるべきだと考えています。
それは間違いではないでしょう。
ただ問題は、どのような報酬を求めるか、ということです。

報酬としての金銭と、報酬としての歓喜と、何が違うのでしょうか? 
金銭は相手からもらわなければ手に入らないのに対して、
歓喜は自分の内面で感じるものであるため、相手に依存する必要がありません。

言い換えれば、金銭では相手が主人になるが、
歓喜ならあくまでも自分自身が主人たり得る、ということです。

理想的にいえば、ボランティアのように仕事ができるのが最善でしょう。
しかし、そのためには金銭という巨大な力で動いているこの世の全体的な構造そのものを作り替える必要があるので、今のところは夢に近い話です。

ただ、拝金主義は嫌われ、近年次第にボランティアやNPO活動が注目を集めつつあるのは、
やはり我々人間の意識の底に、自分の活動の主人には自分がなり、
金銭では計りきれない自分の価値を感じたいという止み難い願望があるためだと、
私は感じるのです。



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Admin:kitasendo