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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

徒然、ブログ12年

2021/12/30
生活日記 0
心の様々

大つごもりを明日に控へて、たまには少し緩い気持ちで徒然に自分のブログ生活を振り返つてみようと思ふ。

ブログを始めたのが2009年。もうかれこれ12年になる。我ながらよく続いてゐるなと思ふ。書くことは嫌ひではない。

昨年の2月までは地元の教会に奉職して役職もあつたので、ブログのタイトルは「教育部長の講義日記」として記事を書いてきた。昨年2月に退職して、タイトルを「まるくまーる」に変更した。

記事はもちろん講義内容もあるが、読書記事もあれば、家庭の日常もある。思ひとしては、内面の気づきを書きたい、それが少しでも読者の気づきにもつながればいゝといふ気持ちだつた。

講義は随分したが、講義といふのは、なかなか一筋縄ではいかない。原理講義は基本的な骨格こそ決まつてゐるものの、その奥行きはおそらく無限に深く広がつてゐる。どこまで奥に入れたかによつて、講義の味はいくらでも変はつてくるといふのが実感です。

ある一時期、自分の原理講義を録音し、パワーポイント画像を付けて動画としてYoutubeにアップしたことがある。自分なりに気づきが続いてゐた頃のことです。長くは続かなかつた。

発信媒体としては、2009年当時はブログがかなり有力だつた。その後、YoutubeとかTwitterとかFacebookとか、いろいろな媒体が登場してきたものの、私の中心は一貫してブログであり続けた。

退職して変更したブログタイトル「まるくまーる」といふのは、1ヶ月以上あれこれと考へ続けた挙句に、ある朝起きがけにふいに頭に浮かんできた言葉です。

ネットで調べてみると、「メルクマール(中間目標)」といふドイツ語はあるが、「まるくまーる」は見つからない。私の勝手な造語のやうに見えるが、厳密に言へば、私の頭から出たものではない。今はこれを私の良心の名前と考へてゐる。

良心と言へば、講義を務めた最後の4,5年、「良心」といふものが私の脳裏を占めるやうになり、講義にも取り入れるやうになつた。

講義をしてゐると、いくつもの「心」が出てくる。「生心」「肉心」「本心」「邪心」そして「良心」。これらの「心」とは一体何だらう。そしてお互ひにどんな関係で繋がつてゐるのだらう。

考へてみると、これはなかなか難しい。目にも見えず、意外と概念も曖昧で、分かりにくいのです。

良心についてづつと考へていくと、神との関係はだんだん背景に退いていき、良心との関係がクローズアップされてくる。「良心は第2の神」とも言はれるのに、その良心の声を一体どれくらゐ聞いてきただらう。それがとても心許ない。

なぜ良心の声を聞けないのかと考へると、それを聞けない、あるいは聞かない理由が、自分の深いところにあるやうな気がしてくる。その頃に、「自己牧会プログラム」と出会つたのです。

このプログラムは私にとても多くの気づきを与へてくれた。良心の声を聞くための具体的なメソッドも示してくれる。

とても面白いと思つたのは、
「良心の声を聞くには、私が『今』『こゝ』に留まることだ」
といふ洞察です。

このプログラムの他にも、「心」あるいは「意識」についての理解を助けてくれたのはホ・オポノポノといふ問題解決手法です。これらがそれぞれ分析してゐる内容が、講義をしながら「復活論」に出て来る「甘受」と繋がつてきた。

気がついてみると、
「あゝ、もう何十年も前からかういふ良心の声を聞く手法がちやんと示されてゐたんだ」
といふことが分かつてきたのです。

もうかれこれ1年半以上、母の自宅介護をしながら、家にゐる時間も多い。時間を生かしてブログからもう少し手を広げたいと思ひながらも、なかなか面倒くさくて踏み出せないでゐた。

Youtube動画はブログ以上に手間がかかる。それでも、かつての講義動画とはまた違つたものを作つてみようか。さう奮ひ立つて、試作品を一つ作つてみた。下にリンクを貼つておきます。

目の前に受講者がゐれば言葉は自然に出るが、一人語りはどうしても朗読つぽくなる。少し雑音も入つてゐる。まあ、それでも来年から六十の手習ひで、少しづつ新規開拓をしていかうと思つてゐるところです。



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