死んでも不平を言へない
先生(文鮮明師)は、今まで、神様に対して一言の不平も言わずにみ旨の道を歩んできました。罪もなく監獄に入っていき、悪事を行う者たちから打たれて血を吐く立場でも、「神様、なぜこのようにされるのですか」と恨んだりはしませんでした。 そこで泣いたりわめいたりすれば、神様の心の中に尊敬する余地がなくなるのです。立場がなくなって、サタンがその場を占めるようになります。それで、み旨の道を行く人は、死んでも不平を言うことができません。不平を言う人を友人にすることは、最も危険です。 (『天聖教』3-3-2-47~49) |
この世で最も強い人は、不平を言はない人である。最も賢明な生き方は、不平を言はないことであり、不平を言ふ人を友人にしないことである。
さういふ閃きを与へられる言葉です。
不平を言ふにしても言はないにしても、文先生においては、そのとき念頭にあるのは神様です。それはどういふことかと言へば、今自分をかういふ運命に追いやつたのは他ならぬ神であるといふ明確な自覚があるといふことです。
自分が今かういふ出来事に遭遇し、かういふ境遇に処してゐるのは、決して偶然ではない。どんな状況であれ、それはすべて例外なく神がそのやうにレールを敷いた。
さういふ前提の上で、その神に不平を言はないほうがいゝと言ふのです。
今でもウイグルなどでの弾圧の情報があることを考へると、軽々しく言へる話ではないと思ふ。ただこゝでは、そこまでの極限状況でなくても、我々の日常生活全般で通じる原則ではないかと考へてみます。
なぜ不平を言はない人が最も強いのか。苦しいときに不平が出るのは我々の通例なのですが、しかしさうすれば、神の心の中に我々を尊敬する余地がなくなるといふのです。我々を尊べなくてその場から神が引けば、代はりにサタンが入つて来て、その場を占領してしまふ。
これをもう少し私の内面の有様として言ひ直せば、かういふことです。
私が不平を言ふと、私は被害者の立場に立つ。私を不遇の立場に追いやつたのが神であらうと人であらうと、あるいは何らかの運命であらうと、「それらが加害者で私が被害者」といふ関係を定立することになるのです。
私が自分を被害者にしてしまふと、神は私に相対できなくなり、私は神の代理である良心の声を聞けなくなる。被害者意識である私の耳(心)に良心の声は同調しないのです。だから、さういふ人には本当の強さがない。
不平を言ふ人を避けよといふのは、どういふことでせうか。
他人の言ふ不平も、私の中の被害者意識を増幅する。
「あの人の不平は尤もだ。私も同様に、不平を言つてもいゝのではないか」
といふふうに、自分の中で正当化が起こります。
不平を言はないといふこと自体も簡単ではない。その難しさの根底を探つてみると、神の配慮を信じることの難しさがあるやうに思ひます。
私が遭遇するどんな小さな出来事にも、神の配慮が隠れてゐると信じられるか。その配慮は私にとつて必ず善意の配慮であると信じられるか。
不平を言ふか言はないかと言ふ前に、この神の配慮を信じられない私の心そのものに変革をもたらす必要があります。

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