考へる前に行動しなさい
まずしなければならないのは、思考ー言葉ー行為というパラダイムを逆転させることだ。”行動する前に考えよ”という古い格言を知っているか? ええ。 それは忘れなさい。根となる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。 (『神との対話1』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
ドイツ人は考へた後で歩き出す。
イギリス人は歩きながら考へる。
フランス人は考へた後で走り出す。
スペイン人は走つてしまつた後で考へる。
といふやうな小話を昔どこかで読んだ記憶がある。それぞれの国民性をうまく捉へてゐるやうに見えて、なかなか面白い。
小話はどの国民が優れてゐるかと言ひたいのではあるまいが、神のアドバイスに照らして比較すると、スペイン人が一番良いのだらうか。しかし神の意図は、もう少し深いところにあるのです。
自分のアドバイスを分かりやすく説明するために、神はこんな実例を出してゐます。
通りを歩いてゐると、乞食の老女が25セントを恵んでくださいと乞ふてきた。小銭くらゐならやれるだらうと、ポケットを探る。最初は1ドルか5ドルでも出さうと思つてゐる。
ところがそこで、「考へ」が割り込んでくるのです。
「お前はどうかしているぞ。今日の予算は7ドルしかないのに、5ドルを乞食にくれてやるつもりなのか?」
そこで1ドル札を探し始める。ところがそこへまた「考へ」が割り込む。
「おいおい、人にくれてやるほどのお金があるのか? コインをやつて、さつさと立ち去つたほうがいいぞ」
ところがポケットには25セントがない。5セントや10セントではあまりに少なすぎるだらうと「考へる」。考へてゐるうちに、老女の前を通り過ぎてしまふ。引き返すには遅すぎる。
どうしてお札を渡さなかつたのか。「考へ」が邪魔をしたのだ。結局、老女は何も得られず、あなたも貧しい気分になる。
この例へを話した後で、神は
「だから、次の機会には、考へる前に行動しなさい」
と諭すわけです。
さうは言つても、「考へる」ことがすべて悪いとは言へないやうに思ふ。むしろ無思慮な行動、少なくとも思慮の浅い行動は、失敗する可能性が高いのではなからうか。
にも拘らず、神は「考へる前に行動せよ」と言ふ。この例への中の「考へ」は、何がまづいのでせうか。
この「考へ」は頭から出てゐます。意識的な考へと言つてもいいでせう。
この「考へ」の根底には、もう一つの思考がある。
「お金には限りがある。だから足りなくなる可能性がある」
といふ思考です。
この思考は、ほとんど無意識の思考です。その無意識の思考が、意識的な思考として現れるとき、
「1ドルは多い。25セントでいゝだらう」
と私を説得しようとするのです。
最初に「1ドルでも5ドルでもあげよう」と思つたその思ひは、「足りない」といふ思考に邪魔される前の「思ひ」であり、「思考」ではない。だから神が言ふのは「最初の思ひに従つて行動しなさい」といふことなのです。
「思ひ」はほんの刹那のものであり、そのまゝ放置すれば、すぐさま「思考」によつて打ち消されてしまふ。だから打ち消される前に「思ひ」のまゝに行動しなければならないのです。
さういふふうに行動しないと、我々はいつまでも「足りない」といふ無意識から解放されることがない。無意識の操り人形であり続けるのです。
この「足りない」といふ思考は、お金に限つた話ではない。ほぼすべてのものについて、我々は「自分が持てるものには限りがある。すぐに足りなくなる」といふ無意識の思考に支配されてゐるのではないでせうか。
神は無闇な浪費を勧めてゐるのではないと思ふ。たとい一見浪費に見えるやうなものを生んだとしても、それ以上に根底の「思考」を変へ、それから解放されることのほうがもつと重要だと指摘してゐるのです。

にほんブログ村

スポンサーサイト