人生をあきらめる
人生をあきらめるべきかどうか、考へてゐる。
「諦める」と言へば、ふつうには「断念する」といふ意味で使はれます。断念したらそこで終はりだから、大抵は「諦めるな。やれるところまでやり通せ」といふのが励ましにもなるし、教育もこれを基本とするでせう。
「あきらめる」とは確かに、「そこで終はりにする」といふことでもある。しかし「終はりにする」前提は、自分がいま直面してゐる事態を認める、容認するといふことでなければならない。逆に言へば、「あきらめない」とはその事態を認めない、容認しないといふことです。
我々には、この「あきらめない」まゝで自分の中に溜め込んでゐる古いものが相当あるのではないでせうか。
「あのとき、あの失敗をしなければ、今もつとよかつたはずなのに」
「あのとき、あゝしてゐれば、お金を失はずに済んだのに」
「あのとき、あの一言を言はなければ、もつと良い関係が続いてゐたはずなのに」
そんな「あきらめない」といふか「あきらめられない」ことが自分の中に山ほどあるやうな気がする。
「あきらめない」といふことはその事態を「是」と認めてゐないことです。ところが、事態は認めてやらないと、いつまでも消えずに残り続ける。それで折にふれて、繰り返し繰り返し記憶として蘇つてくるのです。
蘇つて来るたびに、
「あゝ、悔しい」
と思つて自分を苦しめたり、
「あゝ、自分の人生はもう取り戻せない」
と落ち込んだりする。
「あきらめない」と、それまでの自分の人生から「失敗」といふ符牒を外せないのです。さう考へてみるにつけ、「人生をそろそろあきらめたほうがいゝかな」と思ふのです。
しかし、スムーズに「あきらめる」術があるでせうか。どうしたら心穏やかにその失敗と思へる事態を認め、受け入れることができるでせうか。
その方法を考へてみると、一つは、自分以外のものに失敗の原因を求めることです。
「あの人のせいで、私はかうなつた」
「運が悪かつた」
などと考へてみます。
かう考へてみると、自分は被害者の立場になり、「自分は悪くない」と思へて、少しは気が落ち着くかも知れない。しかし何だかわだかまりが残りますね。
次には
「これは私の蕩減だ」
と自分に言ひ聞かせる方法があります。
自分には思ひ当たる節がなくても、過去のいつか、自分の先祖か誰かに原因があると考へる方法です。さう考へれば、少し我慢できるやうな気がする。
しかしこれも、自分以外に原因を求める点において、第一の方法と本質的には同じやうにも思へます。
第三には、チャンス(機会)だと考へる方法があります。
チャンスとはどういふことか。自分の中に潜む本当の問題に気づくチャンスです。
人より以上に努力してゐるつもりなのに、うまくいかない。さういふとき、自分の中にどんな思ひが湧いてくるか。注目すべきは、うまくいかなかつた理由以上に、それによつて湧いてくる自分の思ひなのです。その思ひこそが、今の自分の問題を映し出してゐる。さう考へることができます。
誰か他の人や環境を責める思ひが湧くなら、それが今私が抱へてゐる問題の本質です。その問題に気づかせ、それを修正できるチャンスを与へてくれたのが、まさにこの事態だといふことに合点がいきます。
つまり、「あきらめる」といふのは自分の目を外向きから内向きへと転換することだとも言へます。「あきらめる」のは決して敗北的に断念することではなく、区切りをつけてより良く再出発できる智恵ではないでせうか。

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