だつて、それがふつうなんだもん
知り合ひが紹介してくれたYoutube動画を何度も見返しながら、この子はどんな子なんだらうと考へ込んでゐる。
まだ小学1年生くらゐに見える。その子がこんなふうに言ふのです。
自分のせいにできると楽だよ。問題が起きるときは、自分の愛が足りないから。 ぼくの愛が足りないから、友だちがぼくに悪口を言つた。だからぼくが彼に愛を渡したんだ。 愛を知るために、こゝに来てるんだよ。 |
動画の構成は、お母さんがその子に
「神様は何て教へてくれてるの?」
と尋ね、その子が
「神様はね…」
と答へる。
男の子の言ひ回しは年相応で、難しい言葉は使はない。しかし大抵の答へは意外なので、お母さんは理解しかねて、
「それつて、どういふこと? どうしてそんなふうになるの?」
と問ひ直すことが多いのです。
目に見えないことだから、どんな神様なのか分からない。眉唾だと思ふ人もゐるでせう。
しかし冒頭の答へ
「自分のせいにできると楽だよ」
などといふことを、6歳の子がふつう言ふだらうか。
しかも神様の教へを聞いただけでなく、その子はその教へ通りに実践してゐるのです。友だちから悪口を言はれたのに、それは自分のせいだ、自分の愛が足りないからだと思つて、その友だちの懐に自分から入つて行つた。
お母さんはびつくりして、
「どうして、そんなふうにできるのよ?」
と問ひ質すと、
「それが(神様の世界では)ふつうなんだもん」
と男の子は、事もなげに答へるのです。
彼が言つてゐることは、私がいつも考へてゐることとほぼ同じです。これは自慢で言ふのではなく、むしろその逆です。
私も、問題は自分の外で起こることはないと思つてゐる。それゆゑ、いかなる場合にも自分がその問題の「被害者」になる余地はないとも思つてゐる。
しかし私はそのやうに考へてゐたとしても、それを「ふつう」のこととしては容易に実行できない。こゝが6歳の男の子と大きく違ふところなのです。
「何となく、さうかも知れない」
から始まり、
「きつと、さうに違ひない」
といふ確信に進み、
「そのやうに生きてみたい」
といふ切実な願望になる。
しかし、そこから
「それがふつうなんだもん」
に至るには、大きな跳躍が必要な気がする。

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