ひとと一緒に
先日何かのドラマを観てゐたら、おばあちやんと孫娘が愛についてやり取りをするこんな場面がありました。
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孫娘はまだ独身のうら若い女性。彼女がおばあちやんに尋ねるのです。
「おばあちやんはおじいちやんを愛してゐたの?」
すると、おばあちやんは
「おじいちやんが生きてるとき、『愛してる』なんて一度も思つたことがないのよ。旦那さんといふより、同志と言つたほうがいゝ感じだつた」
「さうなの?」
「でもね、おぢいちやんが死んだ後になつて、『あゝ、寂しいなあ』つて思つたのよ。そして、寂しいのは独りでゐるからぢやなくて、愛する人がゐないから寂しいんだ。そのことにやつと気がついた」
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おばあちやんはおぢいちやんと一緒にゐるとき、「愛してゐる」といふ実感も喜びも自覚しなかつた。そしておぢいちやんがゐなくなつて初めて、「やつぱりおぢいちやんを愛してゐたのかな?」といふことに気がついた。しかしおぢいちやんがゐない今となつては、愛したくても愛することができない。
人生の実相だなと思ふ。
夫婦が愛するとは、一体どういふことだらう? 私もいまだによく分からないのです。愛してゐたのか、愛してゐなかつたのか? 愛してゐたのなら、どれくらゐ愛してゐたのか?
人生のすべては、あなたがどんな存在になりたいかで決まる。愛があふれる存在になりたいなら、ひとと一緒に愛があふれる行動をするだろう。ひとのためではなく、ひとと一緒に。この違いに注意しなさい。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
この箴言を読むと、「人のため」ではなく「人と一緒に」愛のあふれる行動をするとき私は愛を知る、といふことが示唆されてゐます。2つの行動指針は小さな違ひのやうに見えて、実はとても大きい。
本当に私が愛を知らうとするなら、「誰か人のため」にしてはいけない。さうではなく、「その人と一緒に」することが必要だ。
どうして「人のため」にすべきではないのでせうか。「人のため」といふのは、崇高な志のやうに思へます。歴代の宗教指導者のほとんども、そのやうに教へてきたのではなかつたか。
理由を私なりに考へてみます。
「人のため」といふのは、その人を喜ばせようとすることです。それ自体は良いことなのですが、そのときに私自身は喜んでゐるか。それが問題です。
もし私自身が喜んでゐない、自分を犠牲にして相手だけを喜ばせようとしてゐるなら、「相手は喜び」「私は苦しんでゐる」といふ状態になる。これはかなりまづい状態でせう。
私が苦しみながら相手のためにしようとするとき、私は必ず私の苦しみの見返りを求めるに違ひない。
「私が我慢してあなたを愛したのだから、あなたも私を愛し返すべきだ」
と、心の中できつと思ふ。私自身が満たされてゐないからです。
これでは見返りを求める愛、条件付きの愛といふことになります。
それに対して「一緒に」といふのは、お互いが同時に満たされてゐる状態です。そのときには見返りを求める必要がない。
私たちが愛を感じようとするとき、どちらか一方が苦しんでゐてはうまくいかない。夫婦が愛を感じようとするなら、妻だけが尽くしても、夫だけが苦労してもだめだといふことです。
「ひとのために」
といふ言葉。これがこれまである意味誤解されてきたやうに思へます。
それよりもむしろ、
「ひとと一緒に」。
これが愛を知るためのキーワードですね。

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