全体が蕩減なのです
蕩減の意味の捉え方ですが、何か事故が起きたから蕩減だと思う人が多いのです。何か引っかかったとき、事件が起きたとき、「これは蕩減だ」と思ってゐる。 しかしそうではなく、私たちは今も蕩減路程期間中にいるのであり、全体が蕩減なのです。 (『復帰歴史に見る生活原理』李耀翰) |
何か事件や事故が起きたときに、
「これは蕩減だ」
と思ふ。
このときの「蕩減」は、「罰が当たつた」に近い感覚ですね。我々の心の中には、どうも名状し難い後ろめたさがいつも潜んでゐる。だから何か悪いことが起こると、怖れてゐたことが起こつたと、瞬時に思ふのです。
ところが「蕩減」とは「罰」ではない。実は、我々の生活のすべてが蕩減生活なのです。
同じ説教の中で李牧師は、
「蕩減といふのは結局、一つの闘ひです。戦争を宣布して、それからの戦ひが蕩減なのです」
と言つておられます。
どういふ戦争かと言へば、原理的ではない非主人の主管から脱して、本然の自分にならうといふ目的を持つた人が必然的に通過すべき霊的な戦いひなのです。この戦闘は、通常は平穏で、あるときだけ戦ふといふものではない。づつと継続する戦ひなのです。
さう考へると、何らかの事件や事故が起こつたときといふのは、特別に激しい戦ひのときではあるでせう。しかし一見特別な事件や事故がないやうに見えるときにも、実は戦ひが続いてゐる。このことの自覚が重要だと思ふ。
日常的な戦ひとはどんなものか。こゝからは李牧師の趣旨と少し違つてくるかも知れませんが、私の思ふことを書いてみませう。
例へば、朝歯を磨いてゐるときに、ふと誰かの顔が浮かんでくる。

「あの人は、こんなことを言つてゐたなあ。そのとき私はこんなふうな感情を抱いたなあ」
と思ひ出す。
その記憶を非原理から原理に変換するのです。その人が言つたことは変へられないから、そのとき私が抱いた感情を変へるのです。
まづ、私なりに抱いた感情を捨てる。その人が好きだとか嫌ひだとか、あるいはその言葉が嬉しかつたとか傷ついたとか、さういふ感情を手放すのです。そしてそのときの体験を感謝する。
結局、その記憶が蘇るといふのは、それを原理的に変換するためです。蘇つたときが蕩減復帰のチャンスなのです。
あるいは、ニュースを観てゐたら、どこかの国で暴動が起こつたらしい。暴動の群衆が常軌を逸して周辺の店の略奪まで始めた。

そのときに、大抵は
「ひどい人間がゐるものだな」
と思ふだけで終つてしまふ。
しかしさういふときこそ、よその国の、自分とは無関係な事件だと思つて見過ごさないことです。
その人たちの心の中にどんな思ひ、どんな体験の記憶があつて、あゝいふ行動に及んだのだらう。彼らの記憶と同質の記憶は、私自身の中にもあるのではないか。
さう考へて、その事件の痛みを私の中で癒すやうに努めます。必要と感じれば謝罪をする。そのニュースを私が観たのは偶然ではないと考へるのです。
このやうなことは、特別な事件とは思へないものです。しかし、蕩減路程期間中に生きてゐる私としては、私が体験するすべてのことが蕩減と無縁ではない。
「全体が蕩減なのです」
といふ意味を、私はそのやうに考へるのです。

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