行為は自己を規定する
そして、いゝかね。何の結果にもつながらない無意味なことは何もないことを覚えておきなさい。すべてに結果がある。その結果とは、あなたは誰か、何者かと言うことだ。たったいま、あなたは自己を規定する行為をしている。 (『神との対話3』ニール・ドナルド・ウォルシュ) |
前回の記事で
「今(present)は神からの贈り物(present)」
といふことを書きました。
贈り物を与へるのは神の側ですが、贈られたものをどう受け取るかは私の問題です。神からの贈り物を私はどのやうに活用するか。冒頭の一節がそれを教へてゐると思ふ。私はその「今」を使つて、「より理想的な自己を規定する行為をする」のです。
別の言ひ方をすれば、
「私がどんな行為をしても、それは必ず『私は何者か』を現す結果をもたらす。私の人生は『自己規定』の連続だ」
とも言へます。
例へば、今、私の目の前にある人が現れたとします。その人を好むか好まないか、その人にどんな言葉をかけるか、その人をどのやうに扱ふか。それらすべてが、「私は何者か」を現すのです。
もし私がその人の「欠点(と思へるもの)」を見て、その人を嫌ひ、批判するとすれば、それが「今の私」です。「今の私」は、「人の欠点を見る私」であり、「人を批判する私」といふ結果を必然的に現さざるを得ない。
それと反対に、その人が世間的には劣つた人のやうであつても、その人の隠れた長所を見出し、それをサポートしようとするなら、それも「今の私」です。
神がその人を私の前に送つたこと自体は、フラットです。良いも悪いもない。そのフラットなものを私がどのやうに受け取るか、神はそれを見ておられると言つてもいゝでせうか。それをどう受け取るかによつて、私は否応なく「今の私」を現さざるを得ないのです。
こゝで重要なことがあります。
私の行為が相手にどのやうに見えるか、それについて神には関心がない。あくまでも、その相手を私がどのやうに受け取るか、それによつて私がどのやうに「自己規定」するか、そこにのみ関心があると思ふのです。
私が相手に見える姿は、ある程度偽ることができさうです。心では嫌ひながらも、いかにも好きなふうに振る舞ふ。さういふことは我々の日常によくあることです。
しかし、自分自身だけは偽ることができない。
もし偽らうとするなら、その偽らうとする行為自体がまさに「今の私」を現してしまふ。つまり、「今の私」は「偽らうとする私」以外ではあり得ないことが私にははつきりと分かるのです。
偽らうとするのは私の意識です。しかし「自己を規定する」のは無意識です。意識の役割は「規定された自己」を認識するだけであり、その自己が嫌なら、それを偽らうと悪あがきをしたりもする。
神が贈つてくれた人を好きになるか嫌いになるか。それは無意識の働きです。好きになるのがおそらくは神の期待であるのに、私がどうしても好きになれないとき、私の中で葛藤が起こる。その葛藤をなくさうとするなら、私の無意識を変へるしかない。
ところが、意識で無意識を変へることは極めて難しい。意識は常に無意識の後追ひなので、無意識が見せてくれたものを追認するか拒否するかの二者択一しかないのです。そこで、テクノロジー的に表現すれば、無意識といふハードディスクのプログラム自体を書き換へるしかないといふことになります。
その書き換へる方法について、ホ・オポノポノでは「記憶を消去する」と言ひ、「原理講論」では「甘受する」と言つてゐます。これらの方法が功を奏すれば、私はだんだんと神が期待する「自己規定」ができるやうになるのではないかと私は考へてゐるのです。

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